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help リーダーに追加 RSS 『中国食人史』2、軍糧の不足を補うもの

<<   作成日時 : 2007/09/11 19:43   >>

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飢饉は、自然災害がもたらすばかりでなく、戦乱の長期化によっても起ります。なぜなら北魏以来、職業軍人だけでなく徴用された農民が兵となって戦争の担い手となったため、働き手の少なくなった、あるいはいなくなった耕地が荒廃するのは当然のことでしょう。



故に必然的に糧食が減少し飢饉をもたらします。民衆は当然、今まで述べてきたような行動様式を繰り返す事になるのですが、では軍隊の糧食はどうなるのでしょうか?



あらかじめ整理してしまえば以下のようになります。

1)民衆を糧食とする。

2)敵兵を糧食とする。

3)戦友を糧食とする。





『資治通鑑』晋紀七、晋恵帝永興元年(304年)、「張方の部隊が洛陽の官財を掠奪し、奴婢万余人が西へ走る際、軍中に欠糧し、そこで人を殺し牛馬の肉と混ぜて食用とした」と。



同じような事が、南梁太清三年(549年)、侯景の兵が南京を囲んだ際にも、また明洪武三年(1370年)慶陽が囲まれた際にも発生したようです。



それは家畜の肉が不足したために人肉で補う、ということです。戦乱時には家畜の肉はしばしば人肉より高くなるようです、なぜなら人肉が不足する可能性が少ないからだ、と黄先生は述べています。



以前登場した、隋末唐初の朱燦が、軍の士気を高めるために、「食の美味たるもの、人肉に勝るものがあろうか。他国には人が有るのだから、我らの何ぞ慮るところがあろうか」と。(『唐書』朱燦伝)



軍隊が民衆を食す風は唐末が最盛期だったようです。唐の光啓三年(887年)から大順二年(891年)までの五年間だけでも、『資治通鑑』唐紀中には、887年、888年、891年の三件の記録があります。



また時代は下って、



『元史』五行志、至元十九年(1282年)、「保定路(河北)餓死する者、道に盈(みち)る。孱弱(か弱いもの)を捉え、以って食と為す」と。



『明通鑑』前紀一に、至正十七年(1357年)、「青軍元帥張明鑑が揚州を根拠地とする際、居民を屠殺し以って食した」と。



さらに明末の農民蜂起の指導者でPRCの歴史では評価の高い張献忠(1606年1646年)は、四川に入って重慶・成都を破り大西国を建てました。『明史』『明通鑑』に拠れば、「一日として民衆を殺さない日はなく、少なくない子供が食われ、婦女の足を断ち集めて「蓮峰」と成した」と。(断たれた腿の切り口が蓮の花に似ている、との喩えでありましょう)



張献忠のこうした行為を含めて、PRCでは高い歴史評価を与えているのでしょうか?


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            肯定的に描かれる農民蜂起軍(李自成)




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