トゥルク、シナの歴史のもう一人の主役 IV

さてシナ文明の絶頂期はと問われて唐朝、と答えるのはシナ日本を問わず一般常識でしょうね。でもこの唐朝が、トルコ(テゥルク、チュルク、トゥルク)人によって立てられたことを知る人が、さてどれほどいらっしゃるでしょうか。


シナ人、日本人、老若男女を問わず、多くの人々が誤れる歴史知識に縛られているのではないでしょうか。若いシナ人で政治的ためにする歪曲捏造された歴史教育しか受けていない世代に、特にその傾向が強いようです。彼らの反応は、「だって李世民(唐の太宗)は李という立派なシナの姓を持つじゃあないか」というものです。こんなものは、わが国の「在日」の人々が本名以外に「通名」という日本名をもち日本人として日常社会生活をおくっていることに鑑みれば、皆さんすぐに納得されるでしょう。シナ姓をもつからシナ人であるとはいえないことがわかります。


唐朝の設立者、李淵(唐の高祖)、李世民父子は鮮卑、拓跋氏族系統の出身で、一説には李世民は碧眼であったと伝えられているほどです。

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               「胡人」の容貌の李世民の像をうまく描き表している。


ハナシは五胡十六国にもどります。三国時代のバトルロイヤルを勝ち残った魏を簒奪した司馬氏は、晋をたてるもまもなくして「八王の乱」という内部分裂をきたし、そこにつけ込んだ匈奴をはじめとする騎馬民族が陸続と国をたて、晋は南方に逃れ(東晋)南北朝時代が始まります。

北朝を統一したのは、トゥルク系鮮卑、拓跋氏で王朝名を北魏と称しました。その後、王朝は東魏、北斉、西魏、北周と移り変わりますが全て鮮卑でした。


そして南朝を滅ぼし、再び天下を統一したのが隋ですが、これもまた鮮卑、普六茹氏、普通は楊氏と言われていますが、シナ化した鮮卑なのか、鮮卑化したシナ人(ハン・チャイニーズ)なのかはっきりしません。しかしはっきりしているのは、隋の文帝(煬帝の父)の皇后は独孤氏というれっきとした鮮卑人で、その妹が李淵の母にあたります。つまり隋の煬帝と唐の高祖は母親が鮮卑人姉妹同士のイトコということになります


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                     鮮卑の一支族「土族」の娘


煬帝の放蕩と今の朝鮮半島征伐の失敗により疲弊した隋を簒奪したのが上記李氏父子、そして立てた王朝が唐朝でした。この唐がトゥルク系であることの傍証が幾つかあります。まず漢字の音が大きく変化したことが、漢代の仏教典と隋の時代に編纂された『切韻』という字典との比較からわかります。トルコ語が混入したためと思われます。


またのちに世界史上最初のユーラシアの東西を結ぶ帝国を作り上げた突厥は、はじめてその言葉(テゥルク語)を碑文に書き記したため、トルコ最古の歴史資料は突厥文書であると現代トルコ人に自己同一化されているのですが、その碑文で唐の皇帝を「タブガチ・カガン」と呼んでいるのです。このタブガチは拓跋のことであろうと理解されています。カガンは後のモンゴル族のハーン、またはカーン(汗)と同じく大王の意なのです。






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