誤解されつづける周恩来9、黄埔軍官学校(中)

さて、前回で述べた、2)の周恩来が共産党最初期の軍事部門の最初の軍事責任者であった事は、いくら強調してもしすぎる事はありません。後の国務院総理や外相としての彼の仕事しか知らない多くの人は、周のこの軍人としての経歴を軽視してしまいがちだからです



しかも後に述べますが、共産党軍、すなわちいわゆる「人民解放軍」の健軍記念日8月1日は、周の指導によって実行された「南昌蜂起」(1927年)を記念してのものなのです。(実はその際も、「国民革命軍」の旗印を掲げていたのですが)周の共産党軍に占めるその地位が伺えるというものです。



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国民革命軍軍服の周恩来



1924年、この広東地区軍事委員会軍事部長に就任してより、1935年の「遵義会議」において軍事部長の職を毛沢東に簒奪されるまでの10年間、周恩来は一貫してCCPの軍事責任者であり、毛沢東も彼の指導を受ける立場だったことは、すでに述べましたが、もう一度ここに強調しておきましょう。



さてここで思い出していただきたいのは、シナ本国の党組織より欧州の党組織がより早くコミンテルンにより扶植され、またその規模も大きく、そしてここが重要ですが、コミンテルンとの連絡も地理上より深いものがあったということです。


そのような条件下で、欧州の党組織の指導者であった周が、本国へ周旋され「国共合作」の重要な任務を負かされたことの意味をよく吟味する必要があります。


結論から言えば、後の「二十八人のボルシュビキ」のようにモスクワがシナへ送り込んだ代理人、その第一号人物が周恩来だったということです



このことは、後のCCP内の権力闘争に重大な意味を有するファクターです。


ここから司馬長風氏の文章を引用します。



ソ連および中国共産党が黄埔軍官学校にたいしていだいていた企図はひじょうにはっきりしていた。全力をあげて思想と政治によって浸透し、多数の黄埔学生を掌握しようというのがそれであった。学生の多数を掌握すれば黄埔を支配することができ、黄埔を支配すれば革命勢力を支配することができ、革命勢力を支配すれば国民革命を支配することができ、いったん革命が成功すれば中国を支配することができるからである。



しかし若年の周がこのような遠大な計画を立案実行する事は考えられず、もちろんコミンテルンの指示どおり、当時のコミンテルンから派遣された軍事顧問・ボロ-ディンの操りどおりに活動していたのに間違いはないでしょう。

(これはコミンテルンの秘密事項であってCCPには知らされていなかったようです。)



つまり周こそ、CCPの用語による「国際派」(すなわちソ連派)の魁であり、それゆえにこそ、その後の「国際派」、先に挙げたいわゆる「左翼日和見路線」時代に実権を握った「国際派」と周が緊密に連絡、また協力し、彼らもまた周を信じて疑わなかったのでしょう。



つまりCCPのいう「フランス留学派」はじつは「国際派」に他ならなかった事が以上のことから理解できると思います。ただ周恩来と鄧小平の関係に見られるように、一時同じフランスの地で苦楽を共にしたことが、ある程度の感情をもたせることになったことはあるようです。



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鄧小平と周恩来



これまでのCCPの歴史では、「土着派」(毛沢東や劉少奇など)、「国際派」(王明を頭とする二十八人のボルシュビキ)、および周恩来と鄧小平などの「フランス留学派」と三派に派閥わけすることが普通です。



しかし実は、「土着派」すなわちシナ派、と「国際派」すなわちソ連派が、基本的な二大派閥であったのです




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