誤解されつづける周恩来11、北伐開始から上海占領まで

前回述べた1926年3月の「中山艦事件」から、1927年8月の「南昌蜂起」に至るまでの期間は軍事的、政治的緊張が極度に高まり、「国民革命」、農民暴動、労働者武装蜂起、反共クーデター、共産軍武装蜂起などの驚天動地のめまぐるしい変化が激しい暴力をともなって吹き荒れた時期でした。


この時期、周恩来は以前のような国民党内での華やかな活動は行わず、第二線にしりぞいた陰の工作に徹しています。それは蒋介石の疑惑の目をさけてのことでもあったでしょうが、軍事行動が活発化するにともない、浸透工作の重要性が増してきたことによるものでもあったでしょう。


しかし注目すべきは、周の陰に回っての活動というスタイルの確立がすでに見られることでしょう。


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北伐宣伝ポスター


この革命と反革命、さらに反反革命の交錯する高圧力の政治軍事状況は、そのまま三十年代からの大動乱の幕開けでもありました。


さて1926年7月初め「北伐」のため広東を出発した蒋介石を総司令官とする「国民革命軍」は、同月12日には湖南省会・長沙を攻略、9月初めには漢陽、漢口を続けて落とし10月10日には武昌をくだして武漢三鎮すべてを攻略してしまいました。それまで要した時間はたった三ヶ月。


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革命軍武昌陥落祝賀会


武漢は、揚子江中流に位置し東西南北の交通の要害です。「革命軍」がこの地を押さえたことにより広州の「革命政府」は武漢に移動します(武漢政府成立は12月)。周恩来はいち早く九月には武漢に移り、そこで張国燾からCCP軍事部長の職を受け継ぎます。前にものべたとおり、この時から1935年1月の遵義会議まで周がCCPの軍権を掌握することになります。


この九年間にわたる軍事指導者としての周の権威と声望が、後の文革で思いがけない力を発揮するわけですが、それは後ほど述べる事になるでしょう。


「国民革命」軍を内部からCCPが簒奪するというコミンテルンの工作の要の地位を(共産)党内的にも周が占めたことになりました。


さて蒋介石の「革命軍」総司令部は江西省・南昌にとどまり、汪兆銘ら国民党左派の武漢政府に対して南昌に移動するよう求めるのですが、政府は逆に蒋介石を解任しようと試みます、がしかし軍事を掌握する蒋には手を出せません。


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北伐軍総司令・蒋介石



蒋は、東征して上海を落とそうとします。周は、それに先んじて11月、CCP中央のある上海へと移ります。その時は蒋はまだ南昌を攻略中でした。


軍事の焦点が江西と福建にある時、CCPが江蘇・浙江両省を重視し蒋の機先を制し、「革命軍」の占領をまたず武装蜂起をおこし上海を占拠し、できうればパリ・コミューン式の「革命政府」を樹立し既成事実を作り武漢政府とともに蒋介石を排除しようというものだったのです。その指導に周が任命されたわけでした。


当時の武漢における党内工作、さらなる国民党と軍への浸透も重要な任務でしたが、CCP指導部は上海を手中にすることにより重点を置いたからでした。


周恩来が上海でおこした武装暴動は、中国共産党の興廃・成否のいっさいにかかわるカギであったばかりでなく、コミンテルンが共産主義革命の重大なステップとみなしたものであった。周恩来と共同して暴動を指導したソ連人顧問にゴチコフ(Gotikoff)、アーノ(Arno)、チェル二スク(Chernisk)、ブハーロフ(Bouharoff)と、四人もいたことをみるがよい。


と司馬長風氏は述べますが、たしかに「国際都市」上海を手中にする事は象徴的な意味を有するため気合がはいっていたようです。


しかし国民党側とて狙いは同様、周恩来が上海入りする前の九月、「江蘇特務(スパイ)委員会」を設立していました。これには共産党員も含まれていましたが、それゆえにこそ共産党の動きはしっかりとつかんでおり、蒋介石が4月12日反共クーデターを断行すると一挙に共産勢力を粛清する事が出来たのです。


周恩来らの観測より早く「革命軍」が上海に進軍してきたため、またしかも軍閥側が戦わずに降服する交渉を始めたため、予定した計画がふいになると見た周は、3月21日武装糾察隊、約五千人を動員して暴動を起こし江蘇一帯を支配する軍閥・孫伝芳の上海守備軍を攻めます。


そして上海守備軍の武器を押収し蒋介石の部隊に対抗しようというものでした。


すでに12月に成立していた武漢政府は、3月7日には三中全会を召集して蒋介石の権力を剥いでおりました。つまり前回でも述べたように上海の武装蜂起は武漢政府と呼応したものであったのです。


軍事行動が決着すると、周は一気に「市民大会」を開催して「上海市市民政府」を樹立します。


(武漢の)ボローディンと周の連絡が緊密だったので、武漢の国民党中央は政治会議を開き、「上海市市民政府は上海市民の正式代表機関である」と承認しました。



蒋介石は、以上のような「前門の狼、後門の虎」というはさみ撃ちの中で、生き延びるために否応もなく乾坤一擲の反共クーデターで反撃します。



4月8日、上海に進駐した蒋介石軍は、みずからの「上海臨時政治委員会」に上海市の行政権力を接収させ、12日、駐屯軍が労働者武装糾察隊を武装解除し、また大挙して総工会(労働組合本部)を包囲し共産党員とそのシンパを逮捕処刑しました。


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これが歴史上、「四一二政変」あるいは「清党」と呼ばれる反共クーデターでした。


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周は、ゼネスト、デモを組織して軍と対抗しますが時すでに遅し、「上海コミューン」は血の海に沈んで消滅してしまいました。




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           上海宝山路にできた「血の海」を迂回する歩行者



それどころか周自身も一度は逮捕されるという窮地にさえ陥ったのです。しかし、ある黄埔軍官学校学生の援助があり、身元が割れることなく九死に一生を得て上海を脱出します。それまでの陰徳が効いたことになります。


周恩来、「中山艦事件」に続きこれで蒋介石に二敗目をを喫したことになりました。


この時の打撃で、CCP中央は上海から撤退せざるを得ず武漢へと移動します。


蒋介石は4月18日に南京政府を成立させ武漢政府に対抗します。「国民革命」政府が二つ誕生したわけです。その結果、「革命」はまた新たな段階に進む事になりました。




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