内部大粛清「富田事件」---「文革」の原型、誤解されつづける周恩来17

中共中央が移転する前の中央ソヴィエト区の状況を述べておきましょう。


「八一南昌蜂起」前の1927年5月の五全大会時には党員数6万人、直接掌握していた北伐軍は3万人を数えたものの、反共クーデターへの反撃であった「八一南昌蜂起」後はほとんど消滅したに近かった党と軍を、実権を握り続けた周は、1930年にはふたたび12万あまりの党員、10万の軍隊にまで育てあげました。


毛沢東が支配したゲリラ地区はその一部に過ぎませんでした。しかし毛の勢力伸張著しくまた党中央の支持に背き勝手な内部粛清までする始末だったのです。



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       江西ソヴィエト区の毛沢東(左端)


富田事件」といわれるソヴィエト区内の大規模な粛清は、捏造した罪による反対者殺戮という後の毛沢東の手段をはっきりとあらわしているのですが、事の真相は歴史の闇に葬られてしまいました。これについては後に詳述します。


党の軍事責任者として周が処理すべきは「国際派」ではなく実はこの独善路線をひた走る毛沢東その人だったのです。


周と毛はそれまでほとんど実質的な合作関係はなく、周から見れば毛はただの一地方のゲリラ地区指導者にすぎませんでした。


しかも周のよき伴侶である朱徳が「八一南昌蜂起」失敗後に毛の占領するゲリラ地区に逃込みその地区の多数派となるや、毛は朱との権力闘争を開始し、党が軍を指導するという原則を曲げて軍事力により江西ソヴィエト区を支配するようになったため、他の多くの軍事指導者は不満を党中央の周恩来へ訴えました。


周はそこで毛の軍権を取り上げるための闘争を仕掛けます。そして周が結局は毛の軍事指導権を剥奪することに成功するのですが、この時の恨みが後々まで毛の周に対する警戒を保持させることになります。

しかも当時、軍の指導者たちは周を強力に支持したため、これがまた毛をして周という人をその死にいたるまで恐れさせる遠因またはトラウマとなったのでした。そのことは毛が再び実質的な軍権を奪取する遵義会議における周への遠慮と配慮にもすでに現れています。


実際、毛の死後に葉剣英を中心に周の腹心たちが「四人組」を打倒し毛の危惧が的中しました。それはまた後に詳述するでしょう。



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                  秦邦憲、葉剣英、周恩来



ではなぜ軍の指導者たちは周を支持したのか、それはとりもなおさず毛沢東の独裁に反対したためですが、その毛のやり口のよく表れた「富田事件」にかえって「毛沢東路線」の萌芽を検討してみましょう。


「富田事件」とは、1930年12月7日、毛沢東の命令により政治保安局(憲兵に相当)幹部・李韶九が「赤軍」一個中隊をひきいて富田地区にあったソヴィエト区を包囲し、1700人あまりを逮捕し、約100人が激しい拷問により死亡、該地区の指導者が「AB団」として逮捕拘禁されたことがきっかけでした。


その拷問の様子は、張戒の『マオ』にも描写があります。一例としていわく、女子を丸裸にして竹串を指の爪につっこむ刑「打地雷公」を加え、線香で全身をあぶり、陰部を焼き、乳房を切り取る、などなど。「陵辱刑」という肉体を嬲る刑罰の伝統あるシナではありふれた有様ではあります。


それに対して、冨田地区に駐屯していた第20軍指導員・劉敵が一個大隊の部下をひきいて反抗し江西省ソヴィエトを包囲して李韶九らを逮捕し、李らに囚われていた幹部を解放したこと。この一連の「内ゲバ」事件が(狭義の)「富田事件」と称されています。


しかし事はそれだけで収まらず、毛は総前敵委員会として反抗した第20軍を第一方面軍により「反革命事件」として鎮圧させ、逮捕者4000人、処刑者2000人という大粛清に発展しました。


これは唐突に起こった事件ではなくもちろん事の経緯というものがあります。



「AB団」のABとは、「Anti-Bolsheviki」の略で国民党により組織され南京に本部をおきシナ南部各地に支部をもうけ共産党狩りをその活動目的とする特殊テロ集団とされていますが、はたして本当にそのような組織が存在したかどうかは確認されていません。


しかしその名を口実に反対者を殺し自己の権力固めに利用したのが毛沢東でした。反「AB団」で4000人ほどを次々と粛清し、それが第20軍の反抗を呼び起こしたのでした。


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                       井岡山



手勢400人をひきいて井岡山にのぼってゲリラ基地を築いたのもつかのま、朱徳ひきいる1000人の部隊が合流したことによりたちまち少数派に転落した毛沢東が自己の権力を維持するために仕掛けたのが反AB団闘争という反対派粛清でした。


あえて単純化すれば朱徳と毛沢東の権力闘争ということになります。それは1928年から1930年にわたる江西ソヴィエト区創生期の時期すべてにわたる内部闘争でした。世に「赤匪」、あるいは「朱毛軍」と恐れられた朱徳と毛沢東の関係と「赤軍」の内実はそんなものだったのです。


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                    1937年延安にて、博古、周恩来、朱徳、毛沢東。熾烈な権力闘争がまるで無きがごとく笑ってみせる役者たち。

「富田事件」に前後して粛清された「赤軍兵士」は、一説には総計10万人(「AB団」7万人、「改組派」(反毛派)2万人、「社会民主党」約1万人)ともいわれていますが、いわゆる「長征」に出発した時の「赤軍」総数30万人とされる数字からして、もし本当ならかなりの比率になりますね。


注、この「一説」とは海外シナ人の反共組織(?)博讯網(BoXun News)によるものですから数字統計がどこまで信頼できるかは知りません。



まさに土匪(武装し略奪を生業とする私的暴力集団)、いやそれ以上。ゆえに国民党は山岳地帯でゲリラ戦を展開する共産党を赤い匪賊・「赤匪」と称していたのです





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この記事へのコメント

nhatnhan625
2007年10月16日 12:47
ほんとうに生臭い歴史・・・・。

子供のことはシナ史をおもしろいとおもっていたのですが、いやごく最近まで、ここに来てからは、生臭い血のにおいがするようになりました。別の意味でおもしろくなってきましたが・・・。
マルコおいちゃん
2007年10月16日 15:16
武閑老師、
シナ歴史に血の臭いが嗅げるようになればシナ幻想からの脱却の第一歩です。老師はもうとっくに幻想はないと思いますが。

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