誤解されつづける周恩来14、南昌蜂起の歴史的意味とは?

北伐をCCPサイドからみると、もちろんコミンテルンのその戦略と切り離してみる事はできません。それはCCPが、他国の共産党同様にコミンテルン・シナ支部にしかすぎなかったからです。

第一次国共合作が北伐という軍事行動で実現したのは、コミンテルンがKMTとの合作をつうじてシナ革命を遂行しようとしたからですし、誕生したばかりのCCPをKMTに寄生させ、そのなかで扶養し内からKMTを乗っ取り、シナ革命の果実を我が物としようとしたからでした。


その際、重要な役割を果たしたのがCCP「広東派」と呼ばれる一派でした。その広東派と協力してこそ周恩来の党内、軍内での成功もあったわけです。


譚平山をリーダーとする「広東派」の興隆は北伐とともにあり、その消滅は南昌蜂起と運命をともにしたことにより決定されました。それについては、譚璐美氏の『中国共産党・葬られた歴史』(中公新書)に述べられています。ご参考ください。(譚璐美氏は、譚平山の一族で、毛沢東に葬られたCCPの歴史を掘り起こした。)


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                    晩年の譚平山


すなわちソ連からみても、またシナ革命の勝利者・毛沢東からみても南昌蜂起の成果は極力矮小化すべき歴史だったわけです。ゆえに我々がそこにこだわる理由もあるというものです。

さて結局は失敗に終わった南昌蜂起ですが、「消滅の危機にあったCCPを、時を移さずもてる軍隊を集中して独自の軍を旗揚げし、党に活路を開いた」と評価しましたが、それだけにその意義を見るだけでは不十分でしょう。


南昌蜂起が周恩来らの手で実行されたそのすぐ後に開かれた「八七会議」は、いわゆる「秋収蜂起」を決定しました。その決議に従い湖南で蜂起したのが毛沢東でした。しかしその蜂起も失敗に終わり、かの井岡山に上ってゲリラ戦を戦うことになりました。


ここからシナ革命の新しい闘争が芽生えるのは歴史的事実ですが、その井岡山に、南昌蜂起から広東への南征(じつは退却)中の朱徳軍が合流します。そこでのちに「朱毛軍」ともいわれる紅軍の基礎ができたわけでした。このことから毛沢東中心のCCPの歴史でさえも南昌蜂起が共産党軍の建軍とする基礎があるわけです


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宣伝画・『井冈山会帅』。実際は自軍より倍以上の勢力をもつ朱徳軍に恐れをなした毛は、権力闘争をしかけ、朱徳軍を自己のものとなした。


つまり朱徳とは、普通思われているような毛派の人物ではなく、周が毛により軍事から遠ざけられた後も、周が軍内で権威を発揮するための触媒でもあったのです。

後の「文革」の際、林彪(およびその背後の毛)が軍の実権を奪おうとしたときに立ちはだかったのが周恩来人脈の将軍たちであり、周死亡後はその求心力が朱徳に集中することを恐れた毛派は1976年7月、自動車事故を装い朱徳を暗殺したとも言われています。


しかし、毛死亡後、いわゆる「四人幇」を打倒したのは、結局は周恩来人脈の葉剣英や李先念たちだったのです。そしてその結果復活した鄧小平も、フランス時代からの周恩来人脈(ただし帰国後は毛沢東に近寄り、毛派と見られていた)だったのです。

このことはいずれ詳述するかもしれません。サンケイ新聞社編『毛沢東秘録』(扶桑社)にもその一端が触れられています。お手持ちの方はあわせて参照されることをお勧めします。


さて「八七会議」は、南昌蜂起を抗命行動として処分を行いました。


その内容は、

1)譚平山、李立山の政治局員から罷免。(譚平山は後に除名、詳しくはすでに触れた譚璐美氏の『中国共産党・葬られた歴史』(中公新書)を参照)

2)周恩来、張国燾は政治局委員候補に降格。

3)張国燾、李立山は上海へもどり党中央を再建する。

4)南昌蜂起の名義的主体組織である「中国国民党革命委員会」は解散し「中華ソヴィエト」を名乗ること。委員会主席の譚平山は部署をはなれ、周恩来が軍事の責にあたる



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                  漢口の「八七会議」会場旧跡


しかし「中国国民党革命委員会」を名乗ったのは、国民党から脱退してはならぬというコミンテルンの指示を尊重したゆえのことであったのに、まったく逆の命令を下してきたわけですから、いかにソ連がシナの状況を掌握しておらず、あるいは掌握していたにもかかわらず権力闘争の故、実際の指導に反映されなかったかが知れるというものです。


最大の打撃をこうむったのは譚平山をリーダーとする広東派でした。この結果、広東派はほぼ消滅、後の公式の歴史からも抹殺されてしまいました。


周自身はそれほど重い処分を受けたわけではなく、継続して党の軍事の責任者に止められました。つまり処分されたとはいえ実権は握り続ける事になり、しかも他の指導者たちが失脚したため事実上、CCPの最高指導者となることになりました。しかし個人的には、軍事行動中に重いマラリアにかかり後々までその後遺症に苦しめられことになります。


コミンテルンの評価はどうあれ、南昌蜂起の行動からは周恩来という男の長所も短所もうかがい知る事ができるということも、この南昌蜂起の「歴史的意義」かも知れません。


長所とは、まずその組織力、人を魅了する性格と外交交際術により人を団結させる力量を挙げねばならないでしょう。


また軟弱な優柔不断さとみえる中にも、ここぞという時には決断ができること。その決断に説得力があり衆をその決断した方向に指導する事ができる、ことでしょうか。指導者には欠くべからざる資質です。


また、失敗を認め自己批判することができ、権力に汲々とすることがなく、権力とは手段であることを認知していたこと。さらに、自分より優れた才を認めることができ、必要とあらばその才をもつ人物に服従することができる、ことなどでしょうか。このことが、周をして激しいCCPの権力闘争をサバイブする貴重な財産となりました。


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周はあえて毛を前面にたてることのできる人物であった。周毛最後の会見、背景に鄧小平。


これらの長所は、のちの歴史で遺憾なく発揮されるでしょう。


短所といえば、他人の気持ちを忖度しすぎること。たとえば「南征」中に蔡廷楷が5千人の兵をつれて逃走したのも、周が過度に信用したことによるものです。後においてもKMTとCCPの間で離反を繰り返すこの後の「抗日の英雄」・蔡廷楷を他の委員達は信用しておらず十分な監視が必要と主張していたにも関わらず、周の決定で結局その離反を許してしまったこと。


さらにはその人情味が濃すぎること。例えば、「南征」軍がおこなった二回の会戦のうち一回目の会昌戦役では勝利したものの、二回目の湯坑戦役では敗退し全軍が瓦解してしまった。その責任が一回目の会戦で負傷した400名の兵を放置できず、会戦勝利後ただちに余勢をかって敵を追撃し目的地の潮州地域へ進軍すべきであったに関わらず兵を休ませてしまい、敵の増援を許し戦機を失ってしまった周恩来の指揮に帰せられることが挙げられるでしょう。


これらの弱点は、人としては尊敬すべき長所でしょうが、戦争・革命指導者としては逆に短所として顕れてしまったのです。この短所、いわばお人よし、の面も後にまた発揮されるでしょう。

CCP成立から自軍設立までに、周がいかにその本領を発揮し党と軍の指導者になったかがお解かりいただけたものと思います。



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この記事へのコメント

神谷晃良
2007年10月05日 19:40
ごめんなさい。読み込みが足らない私が悪いのだけれど・・・。CCPって、何?ド素人過ぎて済みません。
マルコおいちゃん
2007年10月05日 20:49
神谷晃良さん、
シリーズ最初のほうで表記説明したと思いますが、Chinese Communist Partyの略語です。英文ニュースなどでは普通に使用されています。日本語の「中共」に相当します。ちなみにKMTは、Kuo Min Tang(「国民党」の南京官語読み)の略語です。
神谷晃良
2007年10月07日 01:04
マルコおいちゃん先生。ありがとうございます。「中共」ですか。成る程文意が読めました。ド素人の私にとって、リアルで憶えのある中共政治家と言ったら、周恩来までなんです。毛沢東は実感が無い。葬式は憶えていますが、「巨星落つ」とか新聞記事の見出しを憶えています。イメージとして毛を支えた、実務派と言う感じでしたね(だって、小学生か中学生位の頃だったもの)。
マルコおいちゃん
2007年10月07日 04:55
神谷晃良さん、
そうですか、そんな年頃では憶えてらっしゃらないのも無理ありません。

>イメージとして毛を支えた、実務派と言う感じでした

そういう固定したあやまてるイメージを壊せればこのシリーズも成功なのですが・・・

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