あるインドシナ華僑との会話二題

以前、
シナ文明の構造から生まれる「シナという病」II,
http://marco-germany.at.webry.info/200709/article_47.html 
なぜシナ人は大移動するか、の記事において、

流入した圧力は第四の力動的な流れをより圧力の低い南方の西江流域と南西の雲南-貴州の盆地へ送り込む圧力を作り出し、さらに、最後の地帯から生力学的な力はインドシナ半島のメコン河流域まで漏れ出した

との引用をしたのを憶えておられると思う。

今回は、そのインドシナ半島のメコン河流域の一国、ラオスからやってきたL君のハナシをしたいと思う。何かの参考になると思われる。ほとんどがL君から聞いた事そのままに,但し一部都合によりぼかしてある。会話はおおよそシナ語で、一部ドイツ語も使用した。


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                         メコン川流域


L君は潮州人の父と、ラオス人の母をもつインドシナ難民で、タイの難民キャンプに収容されていたときに、国連からドイツに割り当てられて渡欧した。いまはドイツ国籍を所有する。わたしのドイツのある会社でのかっての同僚である。


Q> ちょっと身の上話をしてほしいんだけど、かまわないかな?
A> いいよ、もう昔のはなしだからね。

Q> 何時、どうしてドイツに来たんだい?
A> 80年、13歳のとき国境の河を泳いでわたってタイへ亡命したんだよ。そこでドイツに行くようにわりあてられたのさ、どこでもよかったんだよ。キャンプでしりあった仲間もアメリカやフランスなどばらばらさ、北欧に行かされた奴もいたなあ。


Q> どうして亡命したの?
A> 華僑だったからね、政治迫害をうけたわけさ。

Q> それは、国連とドイツ政府むけのハナシじゃあないの?
A> そうじゃあないよ、ほんとのハナシさ。実は、一番上の兄貴がゴチゴチの毛派でね、パテトラオ(注、「ラオス愛国党」、実は共産党)が、彼を危険視して逮捕してしまった。それで僕も身の危険を感じて亡命したわけさ。

Q> 君も毛派だったの?
A> んなわけないだろう、僕は反共主義者さ。

Q> それも政府向けの言じゃあないよね、まあいいや。よかったら君の家族の話をしてくれないか?
A> いいよ。親父は、中国人、潮州人だよ。

Q> インドシナには潮州人華僑が多いよね。
A> そのとおり、ほとんどが潮州人だね。ヴィエトナム、ラオス,カンボジア,みんなそうさ。タイもね。

Q> それで、お父さんはどうしてラオスにやってきたのかなあ?
A> 60年の大飢餓のときに逃げ出したのさ。その前の反右派闘争でずいぶんやられたらしいけど、そういう話は大きくなってからやっと理解できるようになった、親父がそのハナシをしてくれた当時、僕はちっちゃくて何もわからなかった。親父は教師だった。なにか雲南をとおってラオスに密入国したそうだ。ラオスには知り合いがいていろいろ面倒見てくれたらしい、もっともそうでなきゃあラオスなんて思いつきゃあしないだろう。ラオスにきてからもずっと教師をしていた。

Q> 何を教えていたの?
A> 中国語さ、華僑の子弟のための学校が、ビエンチャンにあって、そこの教師をずっとしていた。僕もそこで親父から中国語をならったんだよ。母と知りあい結婚して家庭をもった、僕が生まれた。国内にもすでに妻子がいたから、二番めの家庭だね。まあ華僑としては珍しくはない。落ち着いてから国内に残してきた、さっき話しにでた兄貴を呼び寄せた。兄貴は親父の若いころの子で、そのときはもう大人さ、国内で共産党の教育を受けたから、毛沢東を非常に尊敬していて、当時はやっていた毛語録をいつも読んでいたそうだ。

Q> それは文革時代だね?
A> そうだろうね、僕は生まれたばかりだから何もしらない。インドシナは戦争中さ、でもラオスは比較的静かだった。僕が小学生に上がってまもなくのころかな、共産党が勝ってアメリカが逃げ出した。とたんに、それまで隠れていたソ連人とヴィエトナム人がビエンチャンでで大きな顔をしだしたんだ。兄貴は党員で、反米闘争にも参加していたんだよ。でも戦争が終わってからすぐ党内闘争が始まって中国派が粛清されはじめたのさ。ヴィエトナムでも華僑の追い出しが始まった。

Q> いわゆるボートピープルだね?
A> そのとおり、ある程度の黄金を差し出せば出国できた、といっても安全に目的地につけるあてはない、それでもほとんどの華僑が出国した。フランスが大部分を引き請けた、だからパリの13区の唐人街の住民はほとんどがインドシナ難民さ。カンボジアからもたくさんの華僑がラオスへ逃げ込んできた、こっちはポルポトから逃げてきたわけだ。あの野郎、百回生まれ変わって地獄へ行けばいいんだ。

Q> 君は仏教徒?
A> そうとも。ラオスは100パーセント仏教徒だよ。

Q> ラオスのことはよく知らないけど、ヴィエトナム人とは近いのかな?
A> 莫迦ぬかせ。ラオスとタイは親戚みたいだけど、ヴィエトナム人はインドシナの覇者ずらしておおいばりだ、あんなやつ等と一緒にされてたまるかい。

Q> タイと親戚ってどういうこと?
A> ラオス語とタイ語の区別なんてほとんどありゃしない、言葉だけじゃあない、文化風俗習慣すべてタイと同じだよ。食べ物も同じ。国だって昔は一つだった。だから、タイの難民キャンプにいたときだって何にも不自由なことはなかったよ。

Q> その亡命のハナシをしてくれよ。
A> 兄貴が逮捕されて、なかなか釈放されない、なにもコネはない、そのうち親父が病気になって死んでしまった。(話、しばし中断)
いろいろあって、どうにもラオスでの生活に希望がもてなくなった、僕はまだ子供だったけど、ああいうハードな社会のなかでは早く大人になるもんさ。共産党のやり方もひどかった、物はなくなり、多分ヴィエトナムやソ連にもっていかれちゃったんだろうね、近所の人や友人達も、みんな華僑だけど、どんどんいなくなっていった。あるとき友達から一緒に亡命しようともちかけられた、河を泳いでいくのがいちばん簡単だというわけ、全部渡りきれなくても、ちょうど真ん中まで行けばそこが国境だから、ラオスの兵隊ももう撃ってこない、やってみよう、ってわけさ。


Q> 怖くなかったかい?
A> 怖くないわけがない、怖かったさ、死ぬほど怖かった。でも残ってもなにも希望はない、河辺まで夜のうちだけ歩いた、そしてある夜、月のない晩を選んで必死で泳いだ、中流にタイの警備艇がいて二人を救い上げてくれた。


その後、難民キャンプに収容されて数ヶ月後、ドイツに受け入れられことになり、タイを離れたそうだ。すべて国連難民弁事所が面倒を見てくれたという。母はラオスでその後亡くなり、兄は結局そのまま行方不明。L君はドイツで中等教育を受け、ドイツ人となり、フィリピン人の奥さんをもらい、いまは穏やかな生活を送っている。退職したらフィリッピンにすでに買ってある家に引っ越すそうだ。気候がラオスと似ていて、感じがいいと言っている。あれから一度もラオスには帰っていないそうだ。


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                    ラオスから見たメコン川
 


ここで同じインドシナ難民のCL君に登場してもらおう。CL君はヴィエトナムからのいわゆる「ボート・ピープル」そのままの体験をしたそうだ。彼は、L君と同じ難民キャンプにいてドイツへの飛行機の中でL君と知り合い、L君と同じドイツ語学校で席をならべた仲間同士、彼らの会話はもっぱらなぜかドイツ語だ。おたがいドイツ社会に同化しようと努力したころの名残だろうか?しかしCL君は潮州語、ヴィエトナム語、ドイツ語以外に広東語も北京語も話せる。


Q>  ええと、君も潮州人だよね。
CL> そうさ、ヴィエトナム華僑はほとんどが潮州人だ。

Q>  お父さんがヴィエトナムへいったのはいつごろのこと?
CL> うちの場合は、代々カンボジア華僑だった。僕もプノンペンで生まれた。ロンノルのクーデター(注、1970年、CIAの画策により親シナ派のシアヌーク親王を排除し親米政権を打ち立てた。シアヌークとともに華僑、ヴィトナム人も排斥された)の時、一家でサイゴンに移ったそうだ。僕は小さかったから何も憶えていない。

Q>  そうか、カンボジア生まれか。じゃあ、ロンノルのおかげでクメール・ルージュの虐殺にあわずに命拾いをしたわけだね。
CL> そう、でもロンノルに殺された同胞だっているわけだ。すべては時の運と考えるしかないだろう。

Q>  サイゴンは華僑の集中していたショロン地区に住んだんだろうね?
CL> そういうこと。ショロン地区というけれど、実はサイゴンからは独立したひとつの都市のようだった。サイゴンとはまるで別の街同士、サイゴンとショロンはいわばシャム双生子のような街だった。景気のよかったのは無論ショロンのほうだけどね。


Q>  北京語はどこで習ったの?
CL> ショロンでさ。台湾がつくった学校があった。先生は台湾人だった。台湾語は潮州語とよく似ている。だから台湾人同士の内緒話もだいたいわかる、ははは。

Q>  閩南語同士だからね。さて、北がサイゴンを占領したときのことを話してくれない?
CL> それについてはあまり話したくない。それ以前に逃げ出せる金持ちは逃げ出していた。我々普通の庶民は何が起こるか不安のまま待つしかなかったわけだ。で、案の定さ。北のやつらは初めから我々を追い出すつもりだったようだ。しかし本音はそうでも金で出国させる方針をとった。金品を巻き上げられるし厄介払いもできる、一挙両得というわけだ。

Q>  君たち家族も出国を買いとったわけだね。
CL> そうだ。僕は小学6年生だった。姉は二つ年上。父母と四人だったから、全財産を処分しても足りず、他所からも借金をしたそうだ。

Q>  全部でいくら払ったのだろう?
CL> 知らない。でも全部ゴールドで支払ったそうだ。でもそれは出国許可だけ。船代は別途支払いだったそうだ。

Q>  どんな船でどこまで航海したのかな?
CL> 中型の漁船だった。身の回りのものさえ持たず着の身着のまま船に乗り込み、夜中に出航した。どこまでだったかは知らない。沖には海賊がいて漂流者から略奪しているという噂があったので、そっちが怖かった。方向はたぶん西の方だったと思う。一夜明けたとき運良くフランスの船に救われた。海上には欧米の救助船がたくさん待っていてくれたんだよ。今でも感謝している。

Q>  それからタイの難民キャンプに収容されたわけだね。その船にはヴィエトナム人も乗っていたのかな?
CL> いや、「ボート・ピープル」は全部華僑さ。難民キャンプで受け入れ各国に分配されたんだが、僕たち家族はドイツだった。ドイツへ来てから父母と姉は親戚のつてを頼ってパリへ移住し、僕だけがドイツへ残った。

Q>  どうして?
CL> フランスの悪口をさんざ聞かされて育ったからかな?一度はパリへもいってみたんだけど肌にあわないというか、好きになれない街だった。街筋はサイゴンに似てるんだけどね。偽のサイゴンと感じた、ははは。それでドイツへ戻って勉強することにした。どうせ仮住まい、どこでも同じさ。

Q>  君はヴィエトナムへはその後なんども帰っているよね?
CL> 家内がヴィエトナム人だし、僕もヴィエトナム自体は嫌いじゃない。サイゴンもショロンも僕の故郷だからね。共産党しだいさ。彼らが資本主義をやりだしたから多くの華僑が投資をしだした。ただ国籍は欧米のままでね。共産党を信じるほど阿呆じゃない。

Q>  じゃあ、君も投資家かい?
CL> 小さな写真現像の店をやっている。機械は日本製でドイツで中古を買ってね。

Q>  恭禧発財!
CL> 多謝!



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           サイゴンのショロン地区(現ホーチミン市、チョロン)


CL君の家は、L君の父親のようなシナからの新移民ではなく、代々(いつごろかからかは不明)の南洋華僑だった。諸々の風波を乗り切ってたくましく生きる根性は,まさに華僑精神を体現しているようだ。彼の場合は、シナ人としてよりヴィエトナム国民としての自覚のほうが強いように思われる。サイゴンへの投資も自己の利益ばかりではなく故郷の発展を願っている様子も感じられる。少年時代に故郷を喪失したゆえの懐かしさがヴィエトナムとサイゴンへ彼をひきつけているのかも知れない。それはまた代々インドシナに住み着いていたCL君の家のDNAの発露かもしれない。そこが、新移民としてシナから流出し濃厚なシナ人意識を有しており息子にもその意識をもつよう教育したであろう父親を持つ、L君との大きな差異であろうか?

ここで背景となっているインドシナへのシナ人流入について次回は詳述してみたい。




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この記事へのコメント

nhatnhan625
2007年10月05日 22:57
いまやチョロンの5区だけじゃなく、どんどん広がってますからね・・・・。

ま、サイゴンに入植したのは300年前のシナ人ですから、ある程度、大きい顔してもいいのでしょうけど・・・。


マルコおいちゃん
2007年10月06日 02:12
武閑老師、
呉越の越がそこまで追い込まれて建国したのが越南という説の真意はどうなのでしょうか?ヴィエトナム人はその説に自己同一をしているのでしょうか?わたしの知る限りのヴィエトナム人でその説を知っている者はいません。老師は現地におられたわけですからもっと詳しい情報をお持ちでしょう?どうかご教示ください。
nhatnhan625
2007年10月06日 11:01
もう記憶もうすれてますけど、
学生が、「越」という民族はシナ南部にひろがっていた民族だということは話していたように思います。
呉越の越の子孫というより、越と共通の先祖をもつという感じの言い方だったような・・・
すみません、もうなにを話したか正確には覚えてません。

ただし、そのあとは、すぐ nguoi Trung Quoc (中国人)、nguoi Hoa(華人)に対するうらみ節がはじまりました・・・・(笑)
マルコおいちゃん
2007年10月06日 19:52
武閑老師、
ふうむ、あまり自己の歴史をシナの歴史と絡めて考えたくないようですね。またそうでもないとシナの少数民族として扱われてしまう可能性があるからでしょうね、とかってに考えておきます。

「Tr]は、どう発音するのでしょうか?
シナ語の「Zh」「Ch」に対応しているように思われますが。例、陳はシナ語では「Chen」、ヴィエトナム語では「Tran」。鄭はシナ語では「Zheng」、ヴィエトナム語では「Triu」ですね、しかしドイツではそのまま読むのでそれぞれ「トラン」「トリュー」と本人たちも発音していますが、どうもほんとうは違うような気がするのですが。
nihonhanihon
2007年10月07日 03:05
興味深いお話をありがとうございます。
華僑系ではないベトナム人も、韓国のように、チャイナスタイルの姓を名乗っていると思いますが、あちらでは区別があるのでしょうか?それともないのでしょうか?

「Tr」の発音の話も面白そうですね。
「ツュ」とは全然違うのでしょうね・・・。
でも、”Trung Quoc”ってそのまま日本人にも「中国」 って読めてしまう気がします。
最終的には独立後に、識字率の向上を目標として(というのは本当の理由かどうか知りませんが)文字をフランス式にしてしまうという、ある種、皮肉な結果になったベトナム。
せっかく「国字」があったのにもったいないような気もします。
マルコおいちゃん
2007年10月07日 04:45
nihonhanihonさん、
ヴィエトナムの単姓は、やはりシナ化と思われますが、武閑老師の答えを待ちましょうか。

ヴィエトナムも朝鮮同様に漢字を廃止したからこそ独立を保てるのではないかと思います。日本にも津田左右吉や倉石武四郎というような漢学の碩学にも漢字廃止論がありました。できればそうしたほうがベターかもしれませんが、なかなか困難な事でしょうね。
短足おじさん
2007年10月09日 14:37
マルコおいちゃんさん こんにちは。
初めてコメントさせていただきます。
このブログ最近知りましたが、鋭い視点いつも感心しております。私も最近まで海外で仕事をしておりましたので、同じような危機感を持っています。
所で最近中文のWIKIPEDIAのベトナム(越南)の所に面白いものを見つけました。

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%8D%97

私はシナ語は分からないので推量ではありますが・・
これの歴史のところを見ると、越南は俺のところの属国だったんだ!と書いてあります。
なるほどこれがシナと言う病気かとよく分かりました。

また 越の末裔が越南ではとの話に関連しそうなことも載っています。参考になれば幸いです。
これからも時々こちら又は本宅の方へコメントさせていただきますので宜しくお願いいたします。
マルコおいちゃん
2007年10月09日 15:47
短足おじさん,
はじめまして、ようこそ。親しみやすいお名前でそれだけでもう知己を得た思いです。

>在大部份的歷史中,越南至少在名義上是中國的朝貢國或藩屬國。

「大部分の歴史上」とか「少なくとも名義上」はとか、あいまいな言い方ですが、宗主権を主張したいようですね。同程度の曖昧で沖縄への宗主権も主張したいのでしょう。シナの潜在的領土というわけです。シナがビョー気なのはそうあるものと受け止めて、「少なくとも」ヴィエトナムのように一朝事あればシナの侵略軍を撥ね返す防衛力と気概がほしいものです。

今後もよろしくお願い申し上げます。
3歳児の母
2007年10月11日 16:07
マルコおいちゃんさん、こんにちは。私の友人のお父さんは、元南ベトナム軍の兵士です。1975年にアメリカへ出張中にサイゴンが陥落し、同僚は皆アメリカに残ると言い、皆が止める中、家族のため、一人航路で香港経由でサイゴンに戻り、戻った途端に勝者であるベトナム共産党に逮捕されて、8年間再教育キャンプに行かされたそうです。親戚も全て南部人なので、財産を没収されて、皆が絶望の中、一晩寝る毎に、歯が抜けるように近所の家族がいなくなっていたそうです。その頃は、南部人は皆国外に脱出することを夢見ていたそうですが、お金が無ければそれも叶わず、殆どの南部人は残らざるを得なかったそうです。今でも、そのお父さんは「解放後、アメリカがいなくなって、北から貧乏なベトコンが餓鬼のように押し寄せて略奪が始まった。今は、共産党政権下での汚職、腐敗、モラルの低下、、、本当に昔のサイゴンが懐かしい。」と口癖の様に言います。皆大きな声では言いませんが、家の中で言っています。現在でも、共産党の悪口を聞かれたらすぐに逮捕、牢獄ですので、表向きは誰も口を開きません。
マルコおいちゃん
2007年10月11日 16:31
3歳児の母さん、
こんにちは。ヴィエトナムにお住まいですか?

>北から貧乏なベトコンが餓鬼のように押し寄せて略奪が始まった。

その有様は上海が「解放」された時そのままです。当時上海にいた日本人の方と上海人から同様の状況があったことを聞いています。

またこちらでも南部からの亡命ヴィエトナム人が多いのですが、ドイツ統一後には、東ドイツから労働輸出で働かされていた北ヴィエトナム人たちも西に移住してきています。北でも労働党を憎む事同様だということです。
3歳児の母
2007年10月11日 23:49
こんばんわ。上海もそうだったのですか。。歴史の中で共産主義の産まれた原点を思うと、この惨状は何か非常に空しくなります。今も「略奪行為」を「解放」と名前を変え、シナが盛んに「日本解放」に日夜暗躍しています。解放、解放、、何これ?誰が解放してくれって頼んだのか??っと、やっぱりシナはシナという病に罹っているので、日本の「解放してくれ~!」という幻聴でも聞こえるんでしょうか。。このはた迷惑な病気の隣人には、やはり一度大手術でもして、逆解放=シナという病気からの解放、をしてあげないとならないと思います。
マルコおいちゃん
2007年10月11日 23:57
3歳児の母さん、
最後の一段、おおせのとおりですね。さもないとこっちが大迷惑被ること必至です。しかし核武装をする病人にたいするオペレーションにどんな選択肢があるかは大いに疑問ではありますが。

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