毛沢東をパージする前夜

周と党中央が江西移転するまえの1931年1月、ソヴィエト区党中央を立ちあげその代理書記に就任した項英は、毛の指導権を奪っていました。もちろん周の指示あってのことです。

項英とはどういう人物であったか若干の説明を。

項英(1898―1941、)初期の共産党員。武漢の労働組合指導者を皮切りに、党の江蘇省書記、コミンテルンが主催したモスクワでの六中全会に参加し、「国際派」が牛耳った党内で出世し、1929年には「中華全国総工会委員長」にえらばれ労働運動のトップとなる。(周との関係のよさが伺われます)そしてソヴィエト区に入ってからは周の露払いをつとめ毛の軍権をとりあげ中央革命軍事委員会主席代理を任ぜられ、周の片腕となって軍をしきる。

「長征」開始後は江西居残り組となり苦難の中もちこたえ、第二次国共合作成立後は、新四軍と改変された共産軍の指導者となり「皖南事件」で戦死。



画像

     周恩來の右に項英、左に葉挺。まさに周恩来をささえた左右の将。



全部で五次にわたる国民党政府軍のソヴィエト区包囲討伐のうち、第一次から第三次までは毛沢東が得意のゲリラ戦を指導し勝利を収めたことになっていますが、それは例によって捏造歪曲です。時期的にみて毛の指導は不可能なのです。以下を、


第一次、1930年12月から翌年1月まで
第二次、1931年5月
第三次、1931年7月から9月まで


第一次はまだしも、第二次、第三次の時期には、毛はすでに指導権を奪われ降格させられ軍事指導の立場にはなかったからです。ゆえに第二次、第三次の包囲討伐防衛戦に勝利したのは毛ではなく項英だったのです。


1931年9月、上海の党中央(すなわち周恩来といってもいいでしょう)はソヴィエト中央に宛てた指示の中で毛沢東の誤りを指摘しました。


1)土地改革の不徹底さ(当時の左傾路線にしたがい毛を右翼日和見主義と批判)
2)軍の政治指導の不足、つまり軍の独走と乱れ
3)毛のセクト主義


などです。この指示に基づき、項英はソヴィエト区党第一回大会を開催し毛の富農路線と反「AB団」闘争の行き過ぎを「反革命粛清中心論の錯誤」と批判しました。そして毛の軍事工作を取り上げソヴィエト工作専従(すなわち行政役)を命じました。


このことにより、毛の項英にたいする恨みは深く、後の1941年、新四軍が国民党軍により壊滅させされたいわゆる「皖南事件」で、項英が危難におちいり中央に救いを求めたときに、毛沢東は故意に見殺しにし戦死させたという説もあるくらいです。
http://www.epochtimes.com/b5/6/8/31/n1439909.htm


大会には周恩来は参加していず、周が到着したのは会議終了後の12月でした。周の到着は上海からの党移転そのものでもありました。項英がきちんとたてたお膳立ての上に主役登場という具合に降臨したというわけです。


それは都市蜂起によるボルシェヴィキ型の「革命」の終焉と、農村における武装闘争への転換、すなわちソ連式の「革命」からシナ本来の「革命」方式への回帰を表すものでした。


しかし今でこそそのように歴史を総括できはするものの、当時の現場にいた周にそのような歴史意識があったとは思えません。


上海において党中央がそれ以上維持不能となった現実状況により農村山岳地帯に現にある武装勢力に依拠するしか生き延びるてだてがなくなってしまった、ということでしょう。

つまるところ共産党は、国民政府の強力な締め付けにより山岳地帯に追い詰められたのです。そこへ追い討ちをかけるように包囲討伐がかけられたということでした。


周が到着後、すぐ着手したのは「富田事件」がもたらしたテロリズムの恐怖をやわらげることでした。


そのために周は中央会議を招集し、毛が総前敵委員の時に行った疑心暗鬼にありもしない「AB団」攻撃したことを「重大な右翼的錯誤」と責め立て、たがいに探りあい殺しあう恐怖をしずめ内部の団結を回復しました。


そのことで周の威信はますます高めることになりました。ちょうどその35年後の「文革」時に、衆人みな狂えるように武闘、奪権に狂乱する時、まるで一人醒めているかのように事後処理にあたっていたその姿を彷彿とさせます

このアナロジーは重要です。二人の行動様式がよく現れているからです。毛が好き勝手に思う存分めちゃくちゃにかきまわし、周があとから調整修正の尻拭いをする。

最初は周は毛の上司として権威をもって事を処理できましたが、「文革」では皇帝絶対権力のもとでの宰相として自己の権力を守りながらの綱渡りのような作業でした。自己保身のためだけにそんな苦労を引き受ける必要がどこにあったというのでしょう

このことからも高文謙説の誤りが知れます。


ソヴィエト区における周恩来の威信のほどを示す手記があります龔楚『わたしと紅軍』(『我與紅軍』)がそれですが、未見なので司馬長風の著書から孫引きで紹介します。


ちなみに龔楚は、鄧小平の「白色蜂起」に参加し、その際結成された「赤軍」第7軍の参謀長となりました。鄧小平は政治委員でした。密接な関係が伺えます。しかし「長征」には参加できず居残り組となって江西でゲリラ戦中に国民党軍に投降。


それだけにとどまらず反共専門の軍事指導者として国民党軍に貢献したためか、鄧小平伝の類からはその名が抹殺されています。それによりかえって楚と鄧小平の関係の深さがうかがえるというものです。

画像

               白色蜂起紅七軍軍指導部旧跡



龔楚が中央政治局会議の始まる前、顔見知りの張聞天、毛沢東らと再開を祝して笑いあっているところへ周が入ってきます。


「このとき周恩来がもうあがってきていた。かれはみんなにちょっとうなずいただけで、そのひややかな表情は、しかし以前にくらべて温和であった。毛沢東は横目でかれをみやり、それからわたしをみた。そのようすにはいささかしぜんでないものがあった。」


次いで他の指導幹部がそろい、


「林彪は折り目ただしくわたしのところまできて握手した。とつぜん周恩来が大声でいった。『みなさん、着席願います。開会します』それぞれあわただしく席に着いた。周恩来は議長席にすわり、張聞天が左に、毛沢東が右に、朱徳、わたし、彭徳懐がいっしょにならんですわった。周恩来が立って報告した・・・」

主役は「中華ソヴィエト主席」の毛沢東でも、中央軍事委員会主席代理の項英でも、「国際派」の張聞天でもなく、まさに軍事部長の周恩来であったことを傍証しています。しかも毛のうとましくも畏れてさえいるような周への態度がうかがわれて興味深いものがあります。


周はこのような権威を用いて毛から党と軍のほとんどすべての権力を剥奪しました。「寧都会議」がそれです。

(「誤解されつづける周恩来20」終了)




人気blogランキングへ参加しました。よろしければ応援のクリックをお願いします。
画像

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

例の再録ですね。
2007年11月09日 02:20
いい復習になっています。
マルコおいちゃん
2007年11月09日 16:45
ありがとうございます。
このシリーズは、アクセス数が激減しますが、それでも継続したいと思います。

この記事へのトラックバック

  • 「イタリア製」小考

    Excerpt:   「イタリア製」小考 日航の機内販売で誤表示 イタリア商品、実は中国製  日本航空は九日、イタリア製として機内販売していたカタログ商品「ヒューゴ・ボスウォレット&�... Weblog: 博士の独り言 racked: 2007-11-10 09:23
  • 経営に対する姿勢

    Excerpt: 会社を残したい、守りたい。。。その思いはわかりますが・・・経営に対する姿勢が問われているような気がします。「世の中の基準以上に社内の基準を厳しくすること」と教わりました。不正が多いです。知らなかったで.. Weblog: 武内コンサルティング racked: 2007-11-10 18:16
  • 毛沢東の英語教師 章含之さん死去

    Excerpt: 中国の外交官で、毛沢東国家主席(当時)に英語を教えた章含之さんが26日、肺疾患のため北京市内で死去した。73歳だった。国営メディアが伝えた。 葬儀は25日、中国共産党エリートの墓所である八宝山革命.. Weblog: 中国ニュース racked: 2008-01-29 20:55