【シナの変容】 洛陽、トポス・ブッデイスモ

洛陽は、「中国」すなわち首都として「中国」(こちらは中原の意)の中心であった。だからいわば「中国の中国」である。漢代に成立したシナ・イデオロギーの宇宙論的定位によれば、この都市は天下・世界の中心として永遠に首都たるべきであった。それゆえか、インドから請来された仏教においても、この「中国の中国」は重大な意味を有することになった。



67年、後漢の明帝が夢に金色の人をみた。仏陀は黄色に輝いたといわれているからそれは仏陀であると信ぜられた。そして、当時そこまで仏教化していた西域に使者が送られ仏像、経典が二人の僧とともに請来された。そしてシナ最初の仏寺として白馬寺が建立された。



三国時代の混乱を経て北シナを統一した鮮卑拓跋氏の建てた北魏は、孝文帝によりこの洛陽に遷都した。この時期は、仏教が大いに栄え、洛陽郊外の龍門に石窟が掘られたばかりでなく、洛陽市内にも堂塔伽藍が立ち並んでいたことが後の世に著された≪洛陽伽藍記≫に詳しい。



北朝を引き継ぎ全土を統一したやはり鮮卑系の隋は、二代目・煬帝のとき洛陽を東都と定め事実上は首都としての機能を与えられていた。また経済軍事上の中心地として国家財産が集積された土地でもあった。隋朝内部から帝位を簒奪したおなじく鮮卑系の李淵李世民父子も、自らの王朝・唐を立てた後は洛陽を東都とした。



それはシナ・イデオロギー上からその地が重要であったばかりではなく、その都市の仏教的トポスも機能していたのかもしれない。



しかし唐は隋とことなり、仏教よりも道教を重視した。老子が李姓だったから、というものである。しかしその皇帝の意思とは異なり、シナ歴史上もっとも仏教が栄えたのがこの唐代であった。三蔵法師の天竺への取教もまたもちかえった膨大な仏典のシナ語への翻訳も李世民太宗の時代に行われたのである。



その太宗の後宮へ入り寵愛をうけるも後には疎まれ、太宗死後は出家していた武照は、太宗の息子・高宗の後宮に入りついには皇后にたてられた。則天武后である。



彼女をシナ語では、武則天とよぶ。唐を簒奪する革命をおこし自らが皇帝となって周または大周、また武照の名をとって武周ともいわれる王朝を建てたからである。シナ歴史上唯一の女皇帝である。690年のことであった。



武照が革命に利用したものは仏教であった。彼女は意識してそうしたのかどうかは知らぬが、儒教的世界意識、華夷秩序と男尊女卑を打破するためにシナ的世界を超越する弥勒をもってシナ文明に挑戦する仏教帝国の建設をめざしたのだ。



そのため偽経といわれる弥勒革命のカノンである≪大方等無想経≫俗にいう≪大雲経≫を散布し弥勒下生を宣伝し、みずからがその下生した弥勒として「神都」と改称された洛陽に降臨したのである



これを最大の栄耀栄華として洛陽は、その後は衰えシナの歴史においては二度と政治文化の中心となることはなかった。それは武照が、そのシナ・コスモロジーによる世界中心としてのトポスを、仏教という上位文明により徹底して破壊しつくしてしまったためであろうか?



しかしその実、洛陽は仏教のシナにおける首都してのトポスを有していたのだ。その見えない第二のトポスを武照が開放してしまったのである。



後漢の明帝の仏教請来からかぞえて623年目のことであった。




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武照の容貌を模したといわれる龍門奉先寺の盧舎那仏








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