【シナの変容】 短命だった世界帝国

武照が唐を中断させる弥勒革命を成功させたのは690年であったことはすでに述べた。このころ後代に深い影響をおよぼす宗教的できごとがもうひとつあった。マニ教のシナへの伝来である。694年のことであった。



マニ教はペルシア起源の宗教で、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教グノーシス派などをミックスした宗教であったようで、一時は西はスペインから東はシナまで全ユーラシア大陸にまたがるその名のとおりの世界宗教であった。ラマダン・断食月の習慣はマニ教からイスラム教に継承されたといわれている。またイランを中心にするイスラム教シーア派にもマニ教の影響は濃いともいわれる。



マニ教は、世界各地で異端として弾圧された、とくに本国ペルシアでの弾圧は厳しくそれがシナへの伝来の理由でもあったが、マニ教がその後たどった運命はシナでも同様であった。弾圧後は、明教と名を変え、仏教・道教の振りをして生き延びた。この明教は、のちに白蓮教という弥勒信仰の仏教セクトにも流れ込みシナの歴史に何度も登場することになる。そしてその類まれに重要な役割を果たすことになるのだ。



この白蓮教は、このシェルドレイクの仮説のシナへの適用云々から、なしくずしにはじまった「シナ救済」の考察でも重要なファクターを占めるはずであるが、それについてのべる前に、唐という時代をもういちど検討してみたい。



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唐朝を開いたのは鮮卑人で、突厥との軍事連合により隋を倒したことはすでに述べた。突厥とはチュルク(トルコ)の漢字表記である。鮮卑人はトルコ系ともモンゴル系ともいわれるが、そのころはトルコとモンゴルの明確な区別がなかったようである。



いずれにせよ、唐の朝廷は西アジアとの密接な関係を有していた。前回でも触れたように唐の太宗(李世民)はそれらのトルコ系諸族から「テングリ・カガン」と尊称され畏怖されていたこともすでに述べた。その唐の都の長安はそれら中央アジア諸族にとっての「帝都」でもあったのだ。


東西文化交流といえば聞こえはいいが、実際は、トルコ系や、イラン系の人々が帝都の繁栄をしたって集まっていた、というにすぎないのである。それはよくいわれるように長安が東西交通の要所だったからなどという理由だけではなかったのだ。帝都であればもちろん富が集積されおこぼれに与ろうとする者たちがすりよってくるのは当然なのだ。


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             唐三彩にみられる駱駝に乗る胡人




かれら中央アジアの民にしてみれば唐とは、かれらの代表がシナを軍事平定し統治していると見えたに違いない。そのような政治社会状況であれば、辺境から中央へと宗教も流入してくることもなんら不思議なことではない。マニ教もそのひとつであったろう。



突厥をその後滅ぼしたウイグルが国を建てる(745年)が彼らはマニ教を国教にしたという。このウイグルは、唐の統治を揺るがした「安史の乱」(756年から763年、安禄山も胡人)の際、唐へ援軍を送り長安の奪還に貢献した。このことも唐という王朝の性格をよく物語っている。歴史をどう歪曲してとりつくろうとも、唐という政権はシナ人のものではなかった事実をごまかすことはできない。



唐は西へ開かれていた。というよりも、それは西方からシナへ張り出した軍事パワーがシナの扉を西へとこじ開けた、というべきであろうか?占領者がその出自とする土地とあらたな占領地を結びつけたのであるから、その間の交通が開かれていたのは当然といえば当然のことだったのである。



しかしその唐の優位も、西アジアにあらたに勃興したイスラムのアラブがササン朝ペルシアを滅ぼし現在のアフガニスタンまで進出し、現地に駐屯する唐軍と戦闘をかわしこれを破り中央アジアに覇権を打ち立てることにより終息していった。「タラス河畔の戦い」として史上名高い事件である。それは「安史の乱」に先駆ける751年のことであった。


これより中央アジアはイスラムの天下となった。この歴史的トラウマが現代シナ人をして激しいモスレム・ウイグル人への弾圧となって噴出しているのであろうか?



705年、武照の大周からさらに奪権し、玄宗皇帝による「開元の治」といわれる新たな興隆を迎えた唐であったが、このようにその没落の兆しは意外にはやく顕れていたのだった。この後も唐は、907年の滅亡まで存続はしたものの、帝国の活力の元であった西域をうしないシナに閉じ込められることになったため苦しい経営が続き、中央アジアに覇をとなえたかっての栄光はついに再び帰ることはなかった。






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この記事へのコメント

mugi
2008年04月15日 21:16
初めまして。記事を興味深く拝読しました。

おそらくご存知でしょうが、『回教から見た中国』(中公新書、張承志 著)を私は以前読んでおり、記事にも書きましたのでTBさせて頂きました。
丸幸亭
2008年04月16日 06:23
mugiさん、
はじめまして、ようこそいらっしゃいまし。
唐代の漢人は寛容だった、とのお説ですが、漢・チャイニーズは唐王朝では奴隷の役割しか割り当てられておらず、ノー・アザー・チョイスということではないでしょうか?外国人がたくさん受け入れられたのは、唐の皇帝自身が異民族だったからだと思います。その点も、本エントリーの眼目のひとつだったのです。

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