【中共異端思想の系譜】その8、鄧小平

「中国」では禁書扱いの産経新聞「中国」総局長・伊藤正氏の『鄧小平秘録』上巻(産経新聞社)に李一哲の大字報についてふれた箇所がある。短いので無断で引用する。(313ページ)

「文革当時、中国庶民の生活は貧しく、自由もなかった。74年11月、広州市内に張り出された李一哲(りいってつ)の大字報は、西側からはるかに立ち遅れた現状を憂い、極左文革路線を批判したことで大反響を呼んだ。


後年の改革・開放時代を含め、鄧小平氏の神髄は、国民の欲求を満たすことこそ政治指導者の使命と考え、頑固に自分の政策を貫いた点にある。おそらく鄧氏も多くの国民同様、李一哲の主張に共感したに違いない。」



<李一哲の大字報>には註があり


 「1974年11月、広州市内に張り出された「社会主義の民主と法制」と題した新聞紙67枚の壁新聞。李一哲は、李正天、陳一陽、王希哲という3青年の名から1字ずつとった筆名。中国の現状を特権階層が人民の上に君臨する封建的ファシズム専制とし、極左を痛烈に批判、民主と法制の確立を要求した。当時広東省書記だった趙紫陽は支持したが、中央は「反動文書」と批判、3人は身柄拘束された。文革後の78年に釈放。」とある。


さてどうも変な内容だなあ、と感じる。事実経過の認識に誤りがあるのではないか。それは「おそらく鄧氏も多くの国民同様、李一哲の主張に共感したに違いない」という部分についてである。はたしてそうであろうか?

いわゆる「批林批孔」運動は毛沢東・江青らによる周恩来批判であることはいまや常識となった。そしてもちろん周恩来派の反撃もあったのである。


しかし周自身は1974年6月に癌の手術を受けており、その党政軍にわたる実務は復活した鄧小平が担当していた。つまりこの時期の中共中央における熾烈な権力闘争は、実際は毛沢東・江青らと鄧小平を核心とする周恩来派とによって闘われていた、と考えればよい。


だからむしろ「李一哲の大字報」はその内容と発表時期を考えれば、鄧小平派による江青らに対する反撃の一弾とみなしたほうがすっきりと理解できるのだ。


ゆえに「おそらく鄧氏も多くの国民同様、李一哲の主張に共感したに違いない」という一句は以下のように書き換えたほうがよろしかろう。

「おそらく鄧氏は多くの国民の民意にそって李一哲の主張の執筆を組織し発表させたに違いない」と。


もちろんそんな下部のことまで鄧氏が直接かかわったとは考えにくいが、その人脈に属する広東における系統がそれを組織し権力闘争の道具にしたてあげたのであろう。これは想像である。それを証拠立てる文献がわれわれの眼にふれるはずもないのだ。なにしろ李一哲グループのもう一人の主要執筆者である王希哲がその自伝で事の経緯を明瞭化せず(たぶん)故意に郭鴻志の背景について曖昧化しているのである。これをもって状況証拠としてもいいかもしれない。


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1982年中共十二全大会における趙紫陽と鄧小平、そして胡耀邦(左から)


また表向き李一哲批判闘争を組織しながらも実際はその主張の拡散宣伝につとめた趙紫陽が、鄧小平の故郷である四川の指導者をへて中央へ栄転し国務院総理となったことも含味ある事実であろう。


さらに、のちに李一哲グループの「名誉回復」に尽力したのが、すでにのべたように周恩来や胡耀邦に近い人物で「改革派」の習仲勛であったことをここで思い起こしてもいいだろう。



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