Intermezzo 太子党

≪太子党の源流としての「聯動」≫の続きをやや文体をかえて述べてみましょう。どうも柄にもなく高所大局から意見を垂れるかのごとき文体が続いたため、読者のみなさまも閉口されたことでしょう。こちらもエントリーがどうもはかどらない、なぜか?と考えて文体の問題にふと気づいた、というわけでした。 まだわたしの「対自意識」もまだ錆びついてはいない…
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太子党の源流としての「聯動」

「聯動」と聞いても、何のことかわからないシナ人も多いかもしれない。それも仕方がなかろう、もう四十年という歳月が流れたのだ。 「聯動」とは、「首都紅衛兵聯合行動委員会」の略称である。いわゆる「保皇派」と呼ばれた紅衛兵たちが組織したものである。「保皇派」といっても皇帝を守る、の意ではない。激しく対立した「造反派」紅衛兵と区別するためそ…
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太子党のよって立つ社会的基礎

シナには、「頂替」(ding ti)という制度があった。制度というよりも風俗習慣といったほうが正確かもしれない。元来、「頂替」という語そのものは「替え玉」という意である。 「頂」という字には、日本語にはない「欠員を補充する」「代わりをつとめる」という意があり、こちらは日本語にもある「替」、すなわち「替わる」「代わってする」という字…
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アジアという幻想と虚言

アジアを定義するものはない。せいぜいが気分的な地理的概念にとどまっている。ユーラシア大陸、このユーラシアという言葉自体があいまいな代物で、ただ「Euro」と「Asia」を組み合わせたものに過ぎない。 ヨーロッパという文明的実態はあるが、アジアは広義にいって、ユーラシア大陸のヨーロッパ以外の部分というていどの意味でしかない。つまり「…
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政治指南書としての『老子』

「シナ思想」といわれるものの中で唯一形而上学的、すなわち哲学的な内容をもつものが『老子』である。その他は、ほとんどが処世術的、形而下なものであっていかにも退屈のものばかりである。 もうひとつの例外『荘子』とあわせてそれをカノンとして奉る一派は、「老荘哲学」派とも呼ばれる。 しかしその『老子』を読まれた方はご存知であろうが、そ…
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毛沢東をパージする前夜

周と党中央が江西移転するまえの1931年1月、ソヴィエト区党中央を立ちあげその代理書記に就任した項英は、毛の指導権を奪っていました。もちろん周の指示あってのことです。 項英とはどういう人物であったか若干の説明を。 項英(1898―1941、)初期の共産党員。武漢の労働組合指導者を皮切りに、党の江蘇省書記、コミンテルンが主催し…
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フランス租界から来た朝鮮人

上海旧フランス租界を東西に横切るメイン・ストリート淮海路の南を平行して、復興路がやはり東西に通じている。その東端は南市とよばれる本来の上海城市にあるから、この通りはシナ人居住区とフランス租界を繋いでいることになる。 しかし復興路を西へ進むとやがて淮海路と交差したのち西北へ向きを変え、ついには李鴻章別邸(現・丁香公園)脇で華山路につ…
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シナ化されない文明の強靭さを

「原則として男たちが中国語を読むことを学び中国人に服を着ることで、それは始まる。しだいに彼らは中国語を話し、中国人の宗教的儀式のいくらかを実行するようになるであろう。そうなると女たちまでが中国語をはなすことを学び、中国人の服を着て、彼女らの足を纏足しさえもするであろう。」 大室幹雄氏が『劇場都市』に引用するH.R.デイヴィー…
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1989年11月9日

あの忘れがたき日がまた来る。ドイツ人の魂を揺るがした響きがわれら外国人にも共鳴した歓喜がよみがえるその日。11月9日、「ベルリンの壁」が崩壊した日。 以下は、一年前のイザ版のエントリーの採録です。若干の字句と表現を改るとともに最終部分に加筆しました。 11月9日、そうです、あの日です。東西ベルリンを隔てた「ベルリンの壁」…
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政治言語としての沈黙

「言葉を呑む」とは、あまりの出来事に言を忘れ発する言葉もない、ということであろうか。そして「言葉を呑み込む」となれば、言いたい事があっても、ある状況下で言葉を発するを得ず、あえて沈黙することである。 九月の前総理・安倍晋三の辞任発表には、安部氏以外の大方は「言葉を呑んだ」わけであろうが、安倍氏のあえて「言葉を呑み込んだ」事態にふれた言…
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馬桶の見る夢(夢想千一夜47)

北京に胡同があるように、上海には弄堂(Long Tang)とよばれる庶民の暮す路地がある。その路地には、一階にブロックを積み上げ二階は木造で建てた上海式の庶民住宅が、そのころはどこでも見られたものだ。以下をご覧いただきたい。 典型的な弄堂の眺め、「下只角」(オ・ザ・ゴッ)とよばれる下町に多い。 …
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シナ「走出去」政策の形成と発展

アラブ・アフリカへの投資と同時に労働者を送り込み現地の顰蹙をかったり、また観光や商業に役立てたいという地元の利権への誘惑を利用して、世界各地に人工的な「チャイナ・タウン」を創出している中共政府であるが、これらはすべて国家的政策によるものであって決して偶然ではないのである。 それはすなわち「走出去」(外へ歩み出てゆく)戦略という…
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「文化中国」という侵略思想

「文化中国」(Culture China)という考えは, ハーヴァード大学の杜維明教授(現・哈佛燕京学社(Harvard-Yenching Institute)社長)が80年代から唱えているものである。 杜維明氏は、大陸生まれの台湾外省人であり米国留学後そのまま米国籍となり、いわゆる「新儒教主義」を唱え、また「文化中国」を提起した…
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「歴史を学ぶ」と「歴史から学ぶ」(『百年思索』をめぐって)

中学・高校と「歴史」、「日本史」、「世界史」と銘打った教科書を用いた授業をうけ、重大な事件とその年号を暗記する。これがいわゆる「歴史を学ぶ」である。苦労して暗記したものの、せいぜいテストの前日までは記憶していても翌日にはきれいさっぱりと忘れてしまったことは、読者諸兄諸譲の首を大いに頷かせるものがあろう。 教科書にどんなことが書かれ…
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シナ人によるシナ文明批判、『河殤』

「殤」とは見慣れない漢字であろうが「夭折」の意である。「河」とはすなわち黄河である。『河殤』は1988年にシナ国内で放映されたTVシリーズであった。当時のシナを震撼させとくに青年層への影響は大きかった。 その影響は、翌年に爆発した天安門広場を中心にした抗議行動のスタイルに色濃く表現されている。あの「民主の女神像」がそれを象徴してい…
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「富田事件」歪曲の歴史と新たな歪曲、誤解されつづける周恩来19

朱徳は、毛のやり口と内部闘争の経過を逐一上海の党中央に連絡して毛への牽制を願い出ていました。党中央も毛に対して上海へおもむき報告をするように召喚しますが、その意図を知る毛は断じてその召喚には応じませんでした。 この時期には共産軍は前述のとおり全体で10万人規模にふくれあがっていたわけですが、その中心地ともいうべき江西ソヴィエ…
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大室ワールド探検記

大室幹雄氏が構築したシナ古代をめぐる歴史人類学的考察によるテクストの世界、名付けて≪大室ワールド≫を読み解く、『大室ワールド探検記』を始めようと思います。 このシリーズを通してシナ文明の深層への理解を皆さんと一緒に深めていきたいと願うものです。 敵を知り我を知れば、百戦して百戦危うからず。まず敵をよく知らなければなりません。 …
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シナという病に罹りやすい者は

漢文の授業というものがいまだに行われているのかどうか知りませんが、われわれの世代では中学「古典」の教科書に「漢文」が含まれていましたし、高校の課程には「漢文」がありました。 その中で、儒教のいう大同世界のころの理想的君主として堯舜禹が称揚されていました。その是非はともかく、人口に膾炙した以下の故事をご存知のことと思います。(若い方…
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「富田事件」のアナロジー「連合赤軍」同士殺し 、誤解されつづける周恩来18

昭和47年のいわゆる「連合赤軍」による「武装蜂起」すなわち「あさま山荘事件」は、当時の日本中の耳目を集め現場からの実況放送は他の番組を中止して延々と続けられました。ちょうど大学入学試験の時期にあたっていたわたしも、入試の内容はまるで記憶にありませんが、そのテレビの箱の中で演じられた「革命」騒ぎは今でもはっきり憶えているほどです。 …
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内部大粛清「富田事件」---「文革」の原型、誤解されつづける周恩来17

中共中央が移転する前の中央ソヴィエト区の状況を述べておきましょう。 「八一南昌蜂起」前の1927年5月の五全大会時には党員数6万人、直接掌握していた北伐軍は3万人を数えたものの、反共クーデターへの反撃であった「八一南昌蜂起」後はほとんど消滅したに近かった党と軍を、実権を握り続けた周は、1930年にはふたたび12万あまりの党員、…
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