テーマ:周恩来

【中共異端思想の系譜】その9、周恩来

周恩来についてはかって中共中央文献室で周恩来研究に従事していた高文謙氏の『周恩来秘録』(上村幸治訳、文芸春秋社刊、原著は『晩年周恩来』、明鏡出版社、香港)がその権威をもって最近の周恩来観に影響を及ぼしていると思うが、私見ではその周恩来像、すなわち自己保身と晩節を全うすることに汲々として毛沢東に下僕のように仕えた、というのはまったくの捏造…
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毛沢東をパージする前夜

周と党中央が江西移転するまえの1931年1月、ソヴィエト区党中央を立ちあげその代理書記に就任した項英は、毛の指導権を奪っていました。もちろん周の指示あってのことです。 項英とはどういう人物であったか若干の説明を。 項英(1898―1941、)初期の共産党員。武漢の労働組合指導者を皮切りに、党の江蘇省書記、コミンテルンが主催し…
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「富田事件」歪曲の歴史と新たな歪曲、誤解されつづける周恩来19

朱徳は、毛のやり口と内部闘争の経過を逐一上海の党中央に連絡して毛への牽制を願い出ていました。党中央も毛に対して上海へおもむき報告をするように召喚しますが、その意図を知る毛は断じてその召喚には応じませんでした。 この時期には共産軍は前述のとおり全体で10万人規模にふくれあがっていたわけですが、その中心地ともいうべき江西ソヴィエ…
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内部大粛清「富田事件」---「文革」の原型、誤解されつづける周恩来17

中共中央が移転する前の中央ソヴィエト区の状況を述べておきましょう。 「八一南昌蜂起」前の1927年5月の五全大会時には党員数6万人、直接掌握していた北伐軍は3万人を数えたものの、反共クーデターへの反撃であった「八一南昌蜂起」後はほとんど消滅したに近かった党と軍を、実権を握り続けた周は、1930年にはふたたび12万あまりの党員、…
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イデオロギーとは無縁の権力闘争(誤解されつづける周恩来16)

魯迅の有名な詩に「柔石を悼む」と通称されるものがあります。 煩雑になるので訳文だけを紹介します。『魯迅詩話』(高田淳、中公新書、昭46年)から引用します。一部読解困難と思われる漢字をひらがなに訂正します。 長夜に慣れて 春時を過ごし 婦をたずさえ雛(こ)をとりて 鬢に糸あり 夢裡に依稀(おぼろ)たり 慈母の涙 城頭…
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誤解されつづける周恩来15、「八七会議」から左翼冒険主義へ

「八七会議」で急遽「八一蜂起」を追認しさらに「革命根拠地」建設をあらたな目標にすえたCCPは、周を中心に各地に根拠地を作り上げます。毛沢東の江西ソヴィエト区以外の根拠地は、周が人を派遣して建設させたのです。また周以外に軍の再建を組織する能力のある人材はいなかったのでしょう。 しかし時はまだ「八七会議」のころに留まり…
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誤解されつづける周恩来14、南昌蜂起の歴史的意味とは?

北伐をCCPサイドからみると、もちろんコミンテルンのその戦略と切り離してみる事はできません。それはCCPが、他国の共産党同様にコミンテルン・シナ支部にしかすぎなかったからです。 第一次国共合作が北伐という軍事行動で実現したのは、コミンテルンがKMTとの合作をつうじてシナ革命を遂行しようとしたからですし、誕生したばかりのCCPをKM…
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誤解されつづける周恩来13、共産党軍の旗揚げ

8月1日の南昌蜂起が、いかに重要な歴史的出来事であったかは、いわゆる「人民解放軍」がその日を以ってして「建軍記念日」としていることからも知れます。またPRC建国以後に軍が「十大元帥」を選出する際に、南昌蜂起参加の有無が最低の基準になったといわれています。 1957年に描かれた南昌蜂起の宣伝画。中央の白シャツが周。その後ろ…
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周恩来の高笑いがいまなお響く「日中正常化」三十五周年

1970年までの中共は日夜「日本軍国主義復活」をとなえ、いわゆる「四次防」第四次防衛計画により防衛整備を実行するわが国に警戒感をあらわに牽制を繰り返していた。 その中共が手のひらを返すがごとく「日中友好」を唱え始めたのは1971年からであった。 そのことは毛沢東の後継者として憲法にも記載された林彪が、毛沢東暗殺を謀りながらも…
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誤解されつづける周恩来12、反共クーデターから国共分裂

蒋介石の反共クーデターにより国共合作は実質終了したわけですが、形の上では未だ分裂には至りませんでした。なぜなら、国民党側が二つに分裂して武漢(左派)と南京(右派)両政府が対峙しており、武漢政府はひき続きCCPとの合作を望んでいたからです。それはソ連の援助が欲しかったということなのですが。コミンテルンの方針とCCPへの指示も「国共合作を継…
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誤解されつづける周恩来11、北伐開始から上海占領まで

前回述べた1926年3月の「中山艦事件」から、1927年8月の「南昌蜂起」に至るまでの期間は軍事的、政治的緊張が極度に高まり、「国民革命」、農民暴動、労働者武装蜂起、反共クーデター、共産軍武装蜂起などの驚天動地のめまぐるしい変化が激しい暴力をともなって吹き荒れた時期でした。 この時期、周恩来は以前のような国民党内での華やかな活…
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誤解されつづける周恩来10、黄埔軍官学校(下)

南方の「革命根拠地」を国民党軍の包囲討伐から逃れて、気息奄々と陝西省延安に生き延びた共産軍をさらに討伐せんと、蒋介石は張学良の東北軍と楊虎城の西北軍を差し向けますが、秘密共産党員だった張学良はあまり乗り気ではなく、あまつさえ共産党軍と将兵の交流会を持ったりするほどでした。 …
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誤解されつづける周恩来9、黄埔軍官学校(中)

さて、前回で述べた、2)の周恩来が共産党最初期の軍事部門の最初の軍事責任者であった事は、いくら強調してもしすぎる事はありません。後の国務院総理や外相としての彼の仕事しか知らない多くの人は、周のこの軍人としての経歴を軽視してしまいがちだからです。 しかも後に述べますが、共産党軍、すなわちいわゆる「人民解放軍」の健軍記念日8…
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短命で無能だった宰相・華国鋒

周恩来が死去してすぐの春節(シナ旧正月)に、毛沢東は爆竹を鳴らして祝ったことを『晩年周恩来』はつたえている。シナの国民が弔意をあらわし旧正月をいわうことを控えているまさにそのときのことであったから、毛の周生前にたいする仕打ちに怒りを溜め込んでいた人民は、この周の死を祝福する毛の態度にその怒りを爆発させ清明節の天安門広場での「四人組」実は…
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誤解されつづける周恩来8、黄埔軍官学校(上)

周恩来が、モスクワの指令によりフランスから帰国し、「黄埔軍官学校」の政治部副主任の任にあたったことは幾つかの点で非常に重要です。 1)26歳の周が、政治部副主任(シナの組織においては、しばしば副の地位が実権をもつ)に抜擢されるほどモスクワの信任を得ていた事。 2)また周は、同時に共産党広東省地区軍事委員会の軍事部長…
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誤解されつづける周恩来7、職業革命家としてのフランス時代

フランスにおいて周恩来と密接な関係をもった鄧小平の当時のクロニクルを、『我的父親鄧小平』(毛毛(鄧榕)著、三聯書店(香港)1993年)から簡略引用します。 1920年10月、16歳。フランス到着。 1921年3月まで学習を志すもついに放棄し労働者となる。 1921年4月、パリに移動。 1921年9月、仏…
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誤解されつづける周恩来6、フランスへ

周とコミンテルンとの接触にもどってみましょう。 「周恩来が共産主義に傾斜したのはポレヴォ-イ(Sergei A. Polevoy)というロシア人との接触にはじまる。」 と司馬長風は『周恩来評伝』の話を進めます。 「かれはもともと中国に住む白系ロシア人であったが、中国の『詩経』について相当の研究をつんでいて、19…
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誤解されつづける周恩来5、落第続きの学生から革命家に

周恩来は、天津の名門大学・南海大学を主席で卒業したといわれているが、それは捏造であろう。たしかに校長の特別の配慮で(つまり裏口)入学を許されたものの学業に励んだという記録はない。 周は「革命」に励んでいたのである。 周恩来の学校生活は失敗の連続だった。簡単にふりかえってみよう。 1911年辛亥革命の年、満洲の小学校を卒…
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27年も宰相をつとめた男、周恩来 Part3

これまで二回にわたって周恩来を論じながら暗に安倍総理の一年来の成果と失敗を評したつもりであるが、うまくいったかどうかは知らない。 もう少しだけより直接的に続けてみよう。 行政管理についてごく簡単に。「文革」のような大混乱においても宰相が渾身の力を以って国の行政を維持し続けた。それは官僚機構がまったく宰相の権力下に置かれていた…
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27年も宰相をつとめた男、周恩来 Part 2

シナの宰相という権力を考える場合、皇帝権力というものを抜きにしては語れない。 皇帝という絶対権力から一部の権力を付与されて国事の一端を担うのが宰相である。つまりシナの宰相は限られた権力しかもたないである。 それは大日本帝国憲法の下における天皇と内閣総理大臣との関係に似ていなくもない。三軍の統帥権は天皇にあり総理にはない。 …
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27年も宰相をつとめた男、周恩来

1949年に共産党政権がシナ大陸に樹立されて以来、1976年のその死に至るまで27年間も総理の職にあった周恩来は、宰相または総理という政治的地位について再考させてくれる格好の材料でもある。 共産党独裁の「国家」体制とわが国のような議院内閣制における宰相の地位はむろん同じではない。たとえばその人事は民意によらず権力機構内部の意志によ…
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誤解されつづける周恩来4、周恩来の幼少年時代

「おさなくして母をうしなった人間はきわだって従順で、しつけに手間がかからないばかりでなく、世故人情の面で早熟になるものである。というのは、この世界でじぶんをもっとも理解し愛してくれるのは母親であって、母親に先だたれると魂のよりどころをうしない、他人の顔色をみわけながら生きていかねばならないからだ。」ということらしいですが、周恩来の未来を…
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誤解されつづける周恩来3、周恩来と魯迅は一族であった

イザ版『周恩来評伝』では省略してしまった、周恩来の家系と幼少年時代について触れておこうと思います。周の出身家庭は官僚であったことと、また家庭状況が複雑なため周の精神形成に比較的深い影響を及ぼしていると見られるからです。 周恩来は江蘇省淮安で生まれました。しかしその祖父は浙江省紹興から移住したものであり周家は代々紹興に住む名家と…
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誤解されつづける周恩来2

以上三点にくわえて、周は「文革」で打撃を受けたものの結果的には最大の利益を享受し、それまでにない彼にとっては最高の権力を手にし、毛に激しく対立したことを第四点として此処で強調しておくのも、皆さんの興味を引く事ではないでしょうか? 周が権力欲のない清廉潔白な人物であったとは、誤解の最たるものです。彼は、「革命」参加以来一貫とし…
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誤解されつづける周恩来

イザに『周恩来評伝』としての連載中のシリーズをタイトルと多少の字句もあらため再録します。かってのような過大評価も、昨今のような自己保身に汲々とする人物としての過小評価どちらもあまりに政治的で周の真面目をとらえているとは思えません。現在の「日中関係」を作り上げた周恩来その人の怖さを知ることこそ今の我々には必要なことではないでしょうか? …
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