テーマ:太子党

習近平の軍事委員会副主席就任と中共異端思想を考える

さてこれまで習近平と中共異端思想を平行してエントリーしてきたが、本来ならこの二つを総括する「まとめ」を書こうと思っていた。 【中共異端思想の系譜】その1、異端とは で以下のように述べておいたことをご記憶であろうか? 「昨年12月、いわゆる「開放改革政策」30周年を記念して当時習仲勳の助手として「李一哲の大字報」の名誉…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

習近平、「失われた世代」からでる最初の指導者になるか?

4・<政治的正確> 「中央と一致を保つ」と革命伝統を尊重することが彼のモットーのようです。 「六四虐殺の際は、彼は福建省寧徳県の書記でしたが、ある若い作家が『河殤』(ほとんど死滅した古いシナ黄河文明を捨てて西洋近代文明を取ることを提唱したTVシリーズ。『シナにつける薬』でも取り上げたことがありました)のごときTV脚本を…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

習近平、選ばれた理由

あまたいる「太子」たちの中でなぜ習近平が選ばれたのでしょうか?それは地方任官中の「表現」(シナ語で「パフォーマンス」)がよく、選定者たちのオメガネにかなったということでしょう。 そしてそれは、彼の指導者としての資質と資格を現しているはずです。 金鐘氏は、習近平の「表現」のいくつかの特徴を列挙しています。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

習近平、ドロップアウトした劉源との差とは?

「習近平は2000年(すでに福建省長)に、82年の基層へ下る選択をした時を回顧して、<おおくの友はわたしを理解しなかった、そして北京の戸籍を放棄しようとはしなかった。文革で苦労をなめたのだから、補償され、そして楽をするべきだ、と考えていた。基層へ下ることを志願したのは劉源と私だけだった>、と述べています。」 劉源は、近平より…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

習近平、基層から這い上がる

1982年、習近平が中央軍事委員会を辞して田舎の書記からたたき上げた、その経歴を概観してみましょう。 1982―1983年 河北省正定県委副書記 1983―1985年 河北省正定県委書記 1985―1988年 福建省厦門市委常委、副市長 1988―1990年 福建省寧徳地委書記 1990―1993年…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

習近平、基層からたたき上げる

「1982年、習近平は突然中央軍事委員会をはなれ、河北省正定県の県委書記になることを決定しました。当時、耿飆もその選択を理解できず、とどまるよう勧めました。基層に行くなら連隊に行けばよい、なにも地方に行くことはない、と。習近平が意地をはったのは、香港の親共メデイアによれば、ある「父と同輩の地位の高い人」の指導があったともいわれています。…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

習近平、中央権力の栄光と滋味をあじわう

金鐘氏が、習近平の太子党の群のなかでとくに秀でた特徴としてあげる第二点は、その身の処し方です。 1979年に清華大学を卒業した近平は、重大な岐路に立っていました。1978年12月に開かれた十一期三中全会で、中共は「改革開放」に大きく路線を転換しました。 それは鄧小平の権威と胡耀邦の指導が確立された大会でした。 鄧小平の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

習近平、青春時代の光と影

いわゆる「文化大革命」は、路線闘争、イデオロギー闘争を装った権力闘争でした。そのロジックが外部には理解しがたく、海外左右両陣営とも「文革」の開始から収束までその理解は的外れなものが多かった所以です。 「文革」の開始は、1965年の上海『文滙報』に掲載された「海瑞の免官を論ず」の発表とされていますが、その準備段階…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

譚力夫『血統論』と遇羅克『出身論』

「赤い八月」と呼ばれる、「保皇派」(紅五類)紅衛兵たちによる赤色ファシズム、赤色テロの嵐は九月には転換期を迎えました。一月あまりのテロの恐怖により全国を震え上がらせた毛沢東と中央文革小組(「文革」を推進するため中央書記所を廃止し、それにかわる実質上の「党中央」として機能するよう「五一六通知」により決定)は、その「文革」の真の狙いを明らか…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

Intermezzo 太子党

≪太子党の源流としての「聯動」≫の続きをやや文体をかえて述べてみましょう。どうも柄にもなく高所大局から意見を垂れるかのごとき文体が続いたため、読者のみなさまも閉口されたことでしょう。こちらもエントリーがどうもはかどらない、なぜか?と考えて文体の問題にふと気づいた、というわけでした。 まだわたしの「対自意識」もまだ錆びついてはいない…
トラックバック:0
コメント:7

続きを読むread more

太子党の源流としての「聯動」

「聯動」と聞いても、何のことかわからないシナ人も多いかもしれない。それも仕方がなかろう、もう四十年という歳月が流れたのだ。 「聯動」とは、「首都紅衛兵聯合行動委員会」の略称である。いわゆる「保皇派」と呼ばれた紅衛兵たちが組織したものである。「保皇派」といっても皇帝を守る、の意ではない。激しく対立した「造反派」紅衛兵と区別するためそ…
トラックバック:1
コメント:4

続きを読むread more

太子党のよって立つ社会的基礎

シナには、「頂替」(ding ti)という制度があった。制度というよりも風俗習慣といったほうが正確かもしれない。元来、「頂替」という語そのものは「替え玉」という意である。 「頂」という字には、日本語にはない「欠員を補充する」「代わりをつとめる」という意があり、こちらは日本語にもある「替」、すなわち「替わる」「代わってする」という字…
トラックバック:0
コメント:3

続きを読むread more