テーマ:習近平

<学習粉絲団>が存続できたわけ

<学習粉絲団>というシナ版Twitter「微博(ウェイボ)」のアカウントがあって人気を博していたが閉鎖されたらしい。産経川越記者がなぜ閉鎖されたか記事を書いているが、新聞記者ならむしろなぜそういうアカウントが人気を博していたかを探るべきだろう。 <学習粉絲団>の「学習」とはもちろん「習に学ぶ」と「学習」をひっかけているわけである…
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習近平、米国留学中の娘を呼び返す、一方江沢民徹底打倒に党外人士を 誘う

BBCシナ語版が香港の<蘋果日報>の記事を引用して以下のように伝えている。 ↓ “习近平要求留美女儿回国读书” しかしその<蘋果日報>もシナ国内版「Twitter」である微博利用者からの情報だと断っているが。 数日前、ある<人民通迅社>と署名したユーザーが、新浪微博上にコ…
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習近平、武装警察を掌握し江沢民派のパワーを削ぐ

中共腐敗の象徴的人物である江沢民の降格が明らかになった1月21日の楊白冰の葬儀だったが、習近平は不参加の予定であったのに急遽参加をしたのは江沢民への面当てだった。 楊白冰の最高官位は、政治局委員であったから、党総書記が参加する必要はなかったにも関わらず習近平はあえて格式を破って参列した。ゆえに他の政治局常務委員もすべて参列すること…
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習近平ついに江沢民を引きずり下ろす

このブログの更新を止めてすでに三年以上が過ぎ去った。 この間、ついに習近平が党総書記の地位を移譲され、しかも同時に党軍事委員会主席の地位までその手に掴んだのである。 これまで未知数だったその政治手腕があれよあれよというまに発揮されている。 これを機会に、いささか習近平について述べてきたものとして、またわが国の大方の「中…
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習近平の軍事委員会副主席就任と中共異端思想を考える

さてこれまで習近平と中共異端思想を平行してエントリーしてきたが、本来ならこの二つを総括する「まとめ」を書こうと思っていた。 【中共異端思想の系譜】その1、異端とは で以下のように述べておいたことをご記憶であろうか? 「昨年12月、いわゆる「開放改革政策」30周年を記念して当時習仲勳の助手として「李一哲の大字報」の名誉…
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習近平、「失われた世代」からでる最初の指導者になるか?

4・<政治的正確> 「中央と一致を保つ」と革命伝統を尊重することが彼のモットーのようです。 「六四虐殺の際は、彼は福建省寧徳県の書記でしたが、ある若い作家が『河殤』(ほとんど死滅した古いシナ黄河文明を捨てて西洋近代文明を取ることを提唱したTVシリーズ。『シナにつける薬』でも取り上げたことがありました)のごときTV脚本を…
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習近平、選ばれた理由

あまたいる「太子」たちの中でなぜ習近平が選ばれたのでしょうか?それは地方任官中の「表現」(シナ語で「パフォーマンス」)がよく、選定者たちのオメガネにかなったということでしょう。 そしてそれは、彼の指導者としての資質と資格を現しているはずです。 金鐘氏は、習近平の「表現」のいくつかの特徴を列挙しています。 …
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習近平、ドロップアウトした劉源との差とは?

「習近平は2000年(すでに福建省長)に、82年の基層へ下る選択をした時を回顧して、<おおくの友はわたしを理解しなかった、そして北京の戸籍を放棄しようとはしなかった。文革で苦労をなめたのだから、補償され、そして楽をするべきだ、と考えていた。基層へ下ることを志願したのは劉源と私だけだった>、と述べています。」 劉源は、近平より…
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習近平、基層から這い上がる

1982年、習近平が中央軍事委員会を辞して田舎の書記からたたき上げた、その経歴を概観してみましょう。 1982―1983年 河北省正定県委副書記 1983―1985年 河北省正定県委書記 1985―1988年 福建省厦門市委常委、副市長 1988―1990年 福建省寧徳地委書記 1990―1993年…
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習近平、基層からたたき上げる

「1982年、習近平は突然中央軍事委員会をはなれ、河北省正定県の県委書記になることを決定しました。当時、耿飆もその選択を理解できず、とどまるよう勧めました。基層に行くなら連隊に行けばよい、なにも地方に行くことはない、と。習近平が意地をはったのは、香港の親共メデイアによれば、ある「父と同輩の地位の高い人」の指導があったともいわれています。…
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習近平、中央権力の栄光と滋味をあじわう

金鐘氏が、習近平の太子党の群のなかでとくに秀でた特徴としてあげる第二点は、その身の処し方です。 1979年に清華大学を卒業した近平は、重大な岐路に立っていました。1978年12月に開かれた十一期三中全会で、中共は「改革開放」に大きく路線を転換しました。 それは鄧小平の権威と胡耀邦の指導が確立された大会でした。 鄧小平の…
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習近平、青春時代の光と影

いわゆる「文化大革命」は、路線闘争、イデオロギー闘争を装った権力闘争でした。そのロジックが外部には理解しがたく、海外左右両陣営とも「文革」の開始から収束までその理解は的外れなものが多かった所以です。 「文革」の開始は、1965年の上海『文滙報』に掲載された「海瑞の免官を論ず」の発表とされていますが、その準備段階…
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習近平を近距離観察

再録ついでに昨年8月にイザにエントリーした<習近平を近距離観察 >シリーズも再録しておくことにします。 昨年の中共十七全大会で、コキントウの後継者になりあがった習近平についてはナゾが多く、やれ「上海閥」だの、「太子党」だのととりざたされています。 「上海閥」とは、とんでもない勘違いに違いありませんが、「太子党」とは…
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