誤解されつづける周恩来8、黄埔軍官学校(上)

周恩来が、モスクワの指令によりフランスから帰国し、「黄埔軍官学校」の政治部副主任の任にあたったことは幾つかの点で非常に重要です。



1)26歳の周が、政治部副主任(シナの組織においては、しばしば副の地位が実権をもつ)に抜擢されるほどモスクワの信任を得ていた事。

2)また周は、同時に共産党広東省地区軍事委員会の軍事部長に任命されるが、当時それは共産党内での唯一の軍事部門であり、すなわち周は党内における最初の軍事責任者であった事。

3)蒋介石と仕事上の上下関係が発生した事。(後の西安事変と関わる事大なり)



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           黄埔軍官学校開校式典。孫文の後ろに蒋介石。



まず1)について説明します。


コミンテルンの工作と、国民党の事情(すなわち資金、武器の不足)から国民党はコミンテルンの援助を受けることを決定し、いわゆる「連ソ容共」のポリシーの下、党を改組し「中国国民党」(以下、KMTと略称)へと生まれ変わります。(1924年1月、第一次全国代表大会開催。)


これより以後、「中国革命」は、辛亥革命後の混乱、軍閥割拠を克服し国家統一、国民国家建設を目指す「国民革命」の時代へと(国民党の主観では)突入します。



この国民党の改組は、ソ連共産党の組織に倣ったもので、しかもいわゆる「国共合作」による共産党員の入党という、今に至る国民党の組織上の性格を決定するものでした。



このことは、コミンテルン側からすれば、非力な「中国共産党」(以下、CCPと略称)という苗を扶養するための絶好の温床を獲得し、またその苗がいずれは繁殖し、国民党自体を内部から簒奪してしまうことを目論んだものでもありました。



そしてその「革命」活動の拠点が広東であり、しかもその最重要部門の一つが将来の軍事指導者を養成する「黄埔軍官学校」だったのです。



そして、ソ連赤軍をモデルに政治委員制度を採用した「国民革命軍」では政治、すなわち思想工作が鍵となる重要工作でした。「黄埔軍官学校」においては、政治部がその思想工作を相当します。



そのような重要な任務に、26歳の革命経験のない(数年のフランスでの活動経験があるだけの)周恩来が抜擢されたことの意味は、それほどモスクワから信頼されていたことを示すことにほかなりません。



またこの時、周以外にも多数のフランス留学組が広東へ周旋されそれぞれ重要な任務に就いていることから、コミンテルンがこの「国民革命」に大いに期待し入れあげていた事がわかります。



それにしても、すべてを思想工作から始めるというこのコミンテルンのやり口は、そのままCCPとKMTに受け継がれ、今現在にまで至るも脈脈と生きているということがよくわかると思います。


共産党にとっては、思想工作こそ要なのです。


故に、それに反対しその野望を打ち砕く活動も思想工作のフィールドで闘われなければなりません。




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