「富田事件」歪曲の歴史と新たな歪曲、誤解されつづける周恩来19

朱徳は、毛のやり口と内部闘争の経過を逐一上海の党中央に連絡して毛への牽制を願い出ていました。党中央も毛に対して上海へおもむき報告をするように召喚しますが、その意図を知る毛は断じてその召喚には応じませんでした。


この時期には共産軍は前述のとおり全体で10万人規模にふくれあがっていたわけですが、その中心地ともいうべき江西ソヴィエト地区にその何割が集中していたのかは定かではありませんが、数万人規模ではなかったでしょうか。

その中で「AB団」として毛派に処刑されたものが延べ4000から5000人に上ると言われています。


オットー・ブラウンは、中央ソヴィエト区の「正規軍」は五個師団2万5千人、それ以外にも独立「師団」「連隊」が3万から4万人、としています。つまりそれらを合計しても5万5千人から6万5千人、それゆえ例の「一説」の被粛清者10万人は一概には信じがたいものです。


その血なまぐさい粛清と処刑に対する反抗が、すなわち反毛沢東路線が、「富田事件」として爆発したものでした。そして毛は当然のように血の弾圧でこれに答えたものでした。結局は双方で一万人近い死亡者があったものと思われます。


おわかりでしょう。思想改造で人を救う、などという毛沢東路線の伝説や神話が中共により流布されましたが、粛清と処刑は中共および毛沢東には宿命のようにこびりついたエートスだったのです。そしてそのエートスは今も脈々と中共現指導部に受け継がれているのです。それはシナ文明固有の伝統であるからかも知れません。


そう見れば、死刑大国といわれるほどの大量処刑、政治犯生体からの臓器取り出し、東トルキスタン独立運動志士への拷問など、シナがシナであるかぎりあたりまえの出来事として思えてくるのですが、シナ人自身はどう考えているのでしょうか?


さて毛沢東が反対派大量粛清に走ったその政治的背景として、幾度にもわたる上海党中央の召喚に応じない毛の態度に業を煮やした周恩来が、1930年9月に腹心の項英を江西に派遣し毛の軍権を取り上げようとしたことも考えられるでしょう。



しかしちょうどそのころ開始された国民党軍の第一次包囲討伐により内部闘争はおあずけとなり事件はうやむやに処理されてしまいました。もしこのとき共産党の非情な大量粛清が明るみに出ていたら、その後の「共産主義運動」にネガテイヴな影響が出なかったと言い切れません。


その後、胡耀邦がこの事件で「反革命」とされた者たちの「平反」(名誉回復)を試みたようですが、彼の失脚とともに、これもまたうやむやとなりました。また楊尚昆のイニシアチブで中断した名誉回復の作業中に「六四虐殺」にいたる騒ぎがあり、これも尻つぼみになったようです。


この問題は毛沢東と中共の活動当初からの残忍な行動形式にかかわり、また毛評価に直接つながる事情があるゆえ、中共はどうも触れたくないようなのです。


ちなみに高文謙氏の『周恩来秘録』はこの事件に一切ふれていません。やや唐突に周が毛の軍権を剥奪した1932年10月の「寧都会議」について述べるのみです。


画像

『周恩来秘録』の原著・『晩年周恩来』。毛沢東の影におびえる(?)周恩来をデザインした表紙。自己保身に汲々とする人物として周を貶めるその意図は何か?


しかし高文謙氏による説明(党中央と後方ゲリラ地区指導者の意見の差)のみでは「寧都会議」がなぜ開かれたのかの理由説明としては不十分といわねばなりません。


彼が中央文献室で周恩来研究に従事していたおりに、まさかこの「富田事件」に関する資料に目を通さなかったとでもいうのでしょうか?


わたしが高文謙氏の言説を信用しがたいと感じるのをご理解いただけるでしょうか?


ことのついでに『周恩来秘録』への不満を述べておきましょう。

高文謙氏は、その著書・『晩年周恩来』(『周恩来秘録』原著、明鏡出版社、香港、2003年)を、1975年6月16日の周が毛にあてた書信からはじめています。


その手紙は、まず自己の病状を報告し、毛の健康とくに白内障であった目の病気を気使ったあと以下のように書かれています。



從遵義會議到今天整整四十年,得主席的諄諄善誘,而仍不斷犯錯,甚至犯罪,真愧悔無極。現在病中,反復回憶反省,不僅保持晚節,還願寫出一個像樣的意見總結出來。

祝主席日益健康!


遵義会議から今日までまるまる四十年、主席の諄々たる善導を得ながらも、なお不断に過ちを犯し、甚だしきは罪を犯し、真に愧かしさと悔しさに極まり無しです。現在病中ゆえ、反復して昔を憶い反省し、晩節を保持したいばかりでなく、ひとつ様になるような意見を書き出し総括したいと願っています。

主席の日益しの健康を祈ります。




周恩来秘録』の和訳に、いささかの不満もありあえて自分の和訳で紹介しました。

ここでは、表面上は自己批判の総括をしたいと書いてはいますが、その実、毛にたいして周はまだなお意見があり、それまでの(おそらく)毛との関係を総括したいと述べているのです。


しかし、高文謙氏は、周がこの手紙のすぐあとに張玉鳳(毛の「生活秘書」、事実上の妻、高氏は機密秘書と称す。)にたいしてメモを書き、毛の気分の良い時に、(毛は当時白内障のため字を読めず)この手紙を読み聞かせてほしいとことづけたことを挙げて、ただの秘書にさえ懇願する態度で、毛に許しを乞うた。としていますが、これは曲解というものでしょう。


もし高氏が、ある型にはめた周恩来像に読者を導きたいとして、上記のように書いたのでなければ、高氏の赫々たる職業上の経歴(元中共中央文献室、周恩来生涯研究グループ長)は、いっさいが無駄であったと見るしかないようです。

ここで周は、決して許しを乞うているのではなく、まだ言い出していない意見(シナ語の「意見」とは「批判」の意がこもっています)があり、それを書き出したい、と言っているのです。



画像

1975年1月、全人代での政府報告をする周恩来


それは、その年初の第四期全人代で周が、毛の「文革」路線に真っ向から反対する、「四つの現代化」路線を会議の総括となし、あらたに国家建設の目標を定め、それ故にその後の激しい周恩来批判をこうむり、しかも癌が末期にかかり厳しい闘病をせねばならず、政治的にも身体的にも最も過酷な状況にあった時のことです。
周は、いったいどんな総括をしたかったのでしょうか?いまとなっては知る術もありません。




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この記事へのコメント

t
2007年11月26日 02:10
高氏はその経歴にもあるように、党では文革期についての研究をしていた方ですし、著書の一章(建国以前)も文革期に何があったのかの理解のための序章として置かれているに過ぎません。これらのことを抜いた記述をするまるこ氏も言い方をかえれば「歪曲」にあたる行為をしているように思われますが…。
マルコおいちゃん
2007年11月26日 04:04
tさん、
コメントありがとうございます。論点とされることがよく理解できません。もう少し具体的にご指摘くだされば幸いです。またこのシリーズは継続中ですので、もし誤解がおありならば、後に氷解されるかもしれません。

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