ビルマのシナ化と地政学的影響

メコン川はシナに発しビルマ、ラオス、タイの国境を成しカンボジアを通過してサイゴンを抜けて南シナ海へ流れ込む。

この地域でシナと直接国境を接するのはヴィエトナム、ラオスとビルマである。しかしヴィエトナムは歴史的にシナへの警戒感は強く、近くは1979年の鄧小平の国内政局をにらんだ策略により「懲罰」という名の侵略のため攻め込んだいわゆる「人民解放軍」をヴィエトナム軍がコテンパンに撃ちくだくという快挙をなした。

それゆえかこの国境をこえてのシナ人移民が多かろうはずはない。かなりの交易はあるようであるが。

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                ヴィエトナムへ侵略侵攻する中共軍


問題を抱えるのはラオスとおよびビルマであろうが、さてこの両国がどれほどの危機感を有しているのかは定かではない。危機感はもってはいてもなんともしがたいのであろうか。

ラオスは元来が内陸の貧しい小国ゆえシナ人たちへの魅力に乏しいようだ。L君の父親のようにシナ国内の混乱を避けて逃げ込んでくる者達もいたようであるが、ほとんどは首都ビエンチャンに集中し、1975年のインドシナ「解放」時にでも4万5千人を数えるばかりだったという。彼らはほとんどが潮州人であったが、現地名を名乗るものが多く、通婚も普通でラオス人と見かけ上も区別がつかない。

しかしその後の共産化ゆえ、ほとんどの華僑が出国してしまい、1996年の統計では3千人に減少している。

ラオス人は敬虔な仏教徒である。タイであれヴィエトナムであれこの国をだれが支配しようと穏やかに受け入れ静かに暮らすことだけを願っているようにも見える。

L君の仲間であるラオス人たちは皆ひたすら静かな口調で話をする人々である。まことに好ましい印象を与えてくれる人々であるが、シナとヴィエトナムという両大国にはさまれその国の独立はほとんど夢想の域であろうか?

いまでも国境をこえたシナ人労働者が入りこみ、おもに森林伐採、木材加工に従事し、その木材をシナへ輸出しているという。それが現在のおもな経済活動であるらしいのだが、そうであれば遅からずラオスの森林はシナのように丸裸になるのであろう。剣呑な事態である。

またラオスはシナからの出国者のルートとして役割をもっているらしい。わたしの識るある温州人は雲南からラオスをぬけてタイにいたり、そこで難民申請をしたそうだ。理由は当時の天安門事件に関連して指名手配を受けたからというものであったらしいが、その実いわゆる「経済難民」である。もちろん関連業者が関与してのことでありその費用は成功後闇銀行を経由してシナ国内のエージェントに支払ったということだ。


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中共との政経関係を発展させる(シナにとりこまれる)ラオスを象徴する、国家主席朱馬利とコキントーとのツー・ショット


さてこの地域でもっとも長い国境でシナと接するビルマ(ミャンマー)について見てみよう。その鎖国政策のゆえ資料は乏しい。前回あげた『海外華人百科全書』(潘翎主編、三聯書店(香港)出版、1998)にたよって述べてみたい。

香港三聯書店は、いわゆる「祖国復帰」以前より中共寄りの出版で有名である。というより中共の経営である、といってしまったほうがよいのであろうか。ゆえにその出版物は中共の意思と意見を反映していると考えるのが常識である。使用に際してプロパガンダと目される部分は避けた。


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              メコン川流域の地図を再確認のために


ビルマとシナの国境は2000キロ以上におよび、ビルマ独立(1948年)以後の50年代にやっと確定した。それ以前といえば英国植民地時代であるが、シナおよびインドからの移民が多く、1961年の統計では正式登録したシナ人が8万余、インド人が10万余であったが、1970年にははやくも逆転し、シナ人約13万人、インド人8万余となっている。

ビルマ人は元来雲南のシナ人をPaukphaw(親しい人)と呼び習わしていたようで、外国人として対処する意識はなかったようだ。国が他国の植民地では仕方のないことでもある。

それゆえビルマ国内のシナ人は他のインドシナ諸国とはことなり、いわゆる果敢シナ人Kokang Chinese)が多数を占める。この果敢人がはたして漢・チャイニーズであるかどうかは疑問である。シナ域内のいわゆる「少数民族」であるのかもしれない。しかしシナ歴代王朝は果敢人を自国民として取り扱ってきた。


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                      果敢人地域



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                     果敢同盟軍兵士


またシナ人回教徒(ビルマではPanthayと呼ばれる)も多いという。彼らは元来フビライ汗にしたがいこの地に駐屯していたアラブ人・韃靼人の子孫と自認しているらしい

清朝時代、かれらが反乱を起こしその鎮圧のために清は屯田兵を派遣したのであるが、そのうちの一人、毛姓の者がその地の女を娶り湖南へ帰還した。その男が毛沢東の祖先であるという。これは余談。

また東トルキスタン独立を図るウイグルの戦士もこの回教徒との助けでビルマへ出国するケースも少なくないようである。

つまりビルマ東北部とシナ雲南は国境というものがまことに曖昧なのである。地勢のせいもあるだろう。

1885年、英国がこの地を占領しインドの一州として以来、同じ英国植民地である海峡植民地(シンガポール、マラッカ)から大量のシナ人が海路押し寄せた。それゆえそれら海峡植民地におおい福建、広東、客家人たちの華僑に占める割合も多い。これら海から来たシナ人はほとんどがラングーンに住み、東北部の雲南人とは別のコロニーを形成している。

彼らは主にビルマにしか産出しない緑色の玉を求めてやってきたものであるが(上海・玉仏寺の玉製の大仏はビルマ由来である)、その貿易に従事するもの以外にも大工や靴職人(広東人)、小商店主(福建人)などの下級経済労働に従事するものも多いという。

1948年のビルマ独立後はインド人は離境しその後をシナ人たちが埋め合わせた。当時ラングーンには200のシナ人学校があったというからそのシナ人社会の規模の大きさが知れる。

1962年、のNe Win将軍のクーデターにより軍事政権が成立しいわゆる「ビルマ式社会主義」をモットーに、軍が企業を管理し国有化を推進するや、30万人のインド人と10万人のシナ人がビルマを離れていったという。

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                  Ne Winと鄧小平、1985年


1967年、激しいシナ人排斥暴動が発生する。シナ人街を襲った群衆は殺人放火をほしいままにした。表面上は、「文革」にたいする反感とされているが、事実上は当時極端な食糧危機に面していた国内の不満をシナ人へむけて発散することで危機を乗り越えようとした軍部の煽動によるものだったらしい。

そして現政権に直結する1988年の反政府運動をむかえる。かってのシナ人排斥に怯えたシナ人たちはむろんデモには参加しなかったという。


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                    ミャンマー、1988年


反政府運動を血の弾圧で乗り越えた軍事政権が、「ビルマ式社会主義」を否定し市場開放を行うと、タイやシンガポールに逃れていたシナ人たちが大量に回帰し、シンガポール、香港、台湾の資本と結びついた投資活動を盛んに行うようになった。

一方東北部では、果敢人と回教徒が国境一体を支配し続けていた。1990年代になると大量の移民が雲南から流入したという。その数がどれほどに上るのかは定かではない。

また彼らは死亡したビルマ人の戸籍を買い取りビルマ人に成りすますものも多いという。シナ人らしいやり方である。このビルマへのシナ人流入が将来この地域に何をもたらすのかは読者の想像に任せよう。

この地で現在おこっていることは、古代以来連綿と続くシナの拡大化、シナ化といっていいだろう。まさに大室幹雄氏の指摘されたとおりである。

しかしただの歴史の進行と黙視することはできない。中共政権はインド洋への出口をねらってビルマ軍事政権を強力に支持し続けているのは衆知の事実だからである。

このまま事態が推移すればビルマ(ミャンマー)はシナの属国と化すであろう。この地に中共が海軍基地をもつようにでもなれば、中東からマラッカ海峡へ通ずるわがシーレーンはその海域に遊弋するシナの軍艦やUボートの管制を受けることになる。他人事ではないと知るべきであろう。



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